上泉伊勢守信綱

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黒澤明監督の名作「七人の侍」の中で侍達のリーダー的存在である、志村喬演じる勘兵衛を強く印象づけるエピソードが劇中に出てきます。

錯乱した男が赤ん坊を人質に取って農家に立てこもるのですが。
勘兵衛は自らの髷を落とし、借り物の僧着を着て、お坊さんに成りすまします。
ゆっくりと家に近づき、手に持っていたおむすびを食べるよう、中へ投げ入れます。
と、その瞬間に静から動に転じて勘兵衛は家の中へ飛び込みます。
(観客にも家の中は見えないため、劇中の野次馬達と同様に息を呑むという演出がされています。)
やがて、男が飛び出してきて、スローモーションで地に倒れ付します。
後から勘兵衛は赤ん坊を抱いて整然とした表情で出てくるのです。
剣の実力も然ることながら、それを内に秘め、表に出さない勘兵衛という人物の、
侍としての資質と人格の見事さを表わした名シーンであった、と私は思っています。

さて、かなり前置きが長くなってしまいましたが、
私がある日、「日本剣豪列伝」という本を読んでいますと、
前出のシーンと全く同じ話が出てくるではありませんか。
調べてみると、黒澤監督がその話を映画の中で使用したという事が判りました。
私は「本当に、こんな人がいたのか。」と心底驚いたものでした。
(後日、講談の作り話らしいという事も判りましたがw)

その人物こそ「上泉伊勢守信綱」なんです。
上泉秀綱は永正五年(1508年)頃の生まれ、幼少より武芸に励み、天真正伝香取新当流や日立鹿島にて愛州移香斎より陰流を学んでいます。
代々、上泉家は関東管領上杉氏に属していました。
上杉影虎(謙信)が上州に兵を進めた時、
箕輪城の長野業正を目代にした為、長野氏の属将となります。

永録六年(1563年)に武田信玄に箕輪城を落とされ、長野氏は滅亡します。
後に武田氏の配下になりましたが、武将としてではなく、
自らが創始した新陰流を世に広めたいという願いから兵法修行の旅に出ます。
この時、信玄より「信」の一字を与えられ、以後信綱を名のるようになりました。

信綱は、後に徳川幕府の剣術指南役となる柳生家に新陰流を伝え、柳生新陰流を開眼させる事でも有名になりました。
また、当時の剣術の稽古は木刀での型によるものが中心でしたが、
実際に打ち合っても怪我をしない、袋竹刀を考案したのも信綱なんです。

彼は更に、撃剣をもっぱらとしただけでなく、剣術を通じての人格修行を目指す事を推奨していました。
『兵法は進退ここにきわまりて、一生一度の用に立る為ならば、さのみ世間に能見られおき事にあらず、・・・・・仕なしは見苦しくて、初心の様に見ゆるとも、火炎の内に飛入、磐石の下に敷かれても、滅せぬ心こそ心と頼む主なかれ』

信綱の没年や最後の場所ははっきりしていません。(一説には天正十年小田原で亡くなったとも)
どこか自らの目的を果たした後に、スーッと姿を消してしまった様な印象が私にはあります。

剣聖といわれた強さの中に、水鏡の様な静かな精神性と、人生の目的を確固たるものにしようとした意志の堅さを持ち合せていたと思える上泉信綱。
今も私の心の中では、志村喬さんが演じた勘兵衛と、どこか姿が重なってしまうのです。


* 写真は映画「七人の侍」より志村喬演じる勘兵衛。

* この記事は2005年8月に投稿したものを再編集しました。

*2008年6月上泉伊勢守生誕500年祭が群馬県前橋市で開かれ、それを記念して上泉町に銅像が建てられたそうです。私もいつか見学に行きたいと思っています。

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