レイテ島

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戦争を直接知らない世代の人達にとって、それはメディア(書物や映像等)を通しての、においも触感もない、少し距離を置いたモノとして存在してるのではないでしょうか。

私にとっても同じです。でも、距離置きながらも、どこか身近にあるような錯覚を起こしがちで、曖昧なものでもあるのです。

その錯覚を起こさせているモノとは、祖母の箪笥の上に置かれている一枚の日本兵のモノクローム写真です。
そこに写っている色白の青年は、細いフレームの眼鏡をかけ、ぎこちなくこちらに微笑んでいます。
この人は太平洋戦争中にレイテ島で戦死した、祖母のお兄さんなのです。

兄弟一人一人の良い所を全て足しても、このお兄さんには適わないと、祖母のお母さんがよく話していたそうです。
まじめで、実直で、要領が悪くて、今でいう人の良すぎる人だったとか。
出征の朝も、家族にだけ挨拶をして新潟へそっと出かけて行ったそうです。

近所の人がお兄さんに出発前、「戦地に行ったら、今のままではいけないよ。人よりも上手に太刀まわりなさい。」と口をすっぱくして忠告したそうです。
でも、そんな事出来なかったろうって。人の良いお兄さんが要領よくできるわけない、真先に死んでしまったんだろうね、って祖母は話していました。
戦死の知らせは、区長さんが届けてくれたそうです。もちろん、遺品や遺骨が帰ってきたわけではありません。

戦後間もなくしてお兄さんと同じ部隊にいた戦友の方々が実家を訪ねてくれ、当時の話をしてくれたそうです。
残念ながら、私は祖母の記憶から、その時の事を詳しくは聞けませんでした。
ですから、お兄さんがどこの部隊にいて、どのようにレイテ島に移ったのかは詳しくは判りません。
唯一の記録として、戦友の方々が持って来てくれた会寧(現北朝鮮、中国吉林省国境近く)で写したという写真と、祖母の実家に残っているはずの記録を、私は今後調べていくつもりでいます。

レイテ島はフィリピンのほぼ中央に位置し、マニラの南方576km、島の規模は南北180km、東西25~70km。島の中央にあるカリガラ平野を飛行場として利用し、ルソン島攻略の拠点とする。これが米軍のレイテ島の戦略的価値だったわけです。
しかし、別の見方をすればマッカーサーが昭和17年に「I shall return.」の言葉を遺してフィリピンから撤退した時の汚名挽回の為だけの作戦だったとも言えます。

すでに、サイパン島を手中にしていた米軍にとって、そこから直接日本本土を攻略する事ができるわけです。大切な自国の兵士達の命をみすみす犠牲にする必要はなかったはずです。
一方、日本側もフィリピンを本土防衛の最終ラインと定め、ルソン島での決戦に向けて、兵力と軍事物資の集積、夜間演習を日夜繰り返していました。

ところが、昭和19年10月12日に台湾沖で米機動部隊と交戦した際、未熟なパイロットの誤報に未曾有の大戦果を国民に報告してしまいます。後に海軍はこの事に気付きながらも、秘匿してしまいました。サイパン玉砕以来、不安が高まりつつあった国民に対して、今更誤報であったとは言えなかったのです。しかし、問題はそれだけでなく、協同作戦をとるべき陸軍にも、この事実を報告しなかったのです。この為、陸軍は一時的に航空兵力が弱体した米軍を叩く好機と楽観し、兵力も防御も薄いレイテ島での決戦に作戦を変更してしまいます。
現実の航空兵力は米1400に対して、日本側は後詰を含めても200程度。
寡少の航空機で敵に損害を出させる為、零戦に250kg爆弾を抱かせての体当たり攻撃、神風特攻隊が作戦として実行されたのも、このレイテ戦からなのです。

不運は重なるもので、日本側の準備も整わない10月20日に米軍は6万の兵力と1万㌧の物資を上陸させ、ここにレイテ島攻略が始まりました。
日本側の守備隊は島に分散した第16師団のみ。
逐次、兵力補給をするといっても、すでに制空権なき所への海上輸送は死と隣合わせの命懸けそのもの。
海上輸送中に爆撃や潜水艦による攻撃で、船ごと亡くなっている兵士が約1万人に達しています。

運良く島に上陸できたとしても、弾薬も食料も乏しい中で米軍の圧倒的な物量と戦わなくてはなりませんでした。
更に島内にはマラリアが発生しやすく、いたずらに兵士達の命を損なう事に。
米軍の島内での航空戦力が日々に増大していく中で、こうした兵員輸送自体が無意味であるにも
かかわらず、大本営(東京)はレイテ島での勝利にこだわりました。(一説では、レイテ戦の勝利を切札に和平しようとしていた。)
結局、作戦は2ヶ月続行され、多くの人命が死地に駆り出される事に。

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『黒線は米軍の進撃ルート、白線は日本側の兵員輸送ルート。南に大きく迂回しているのは制空権を奪われていた為に北部カリガラ湾から上陸させる事が難しかったから。』

例え、作戦を中止した所で戦局が変わる事はなかったでしょう。それでも、84006人(陸海空を含む)の兵力を投入しながら、戦没者が79261人にも達してしまった惨状は避けられたのでは、と思うのは遺族だけではないはずです。

亡くなったお兄さんは死の間際まで、何を考えていたんだろうと思います。
食料難と病気に悩まされる熱帯の島で。
家族のこと、故郷の思い出、独身だったそうなので、好きな女性がいたかもしれません。

お国の為という決まり事から、自分の気持ちを表に表わすこと等できなかったでしょう。
おそらく、大抵の兵士達が自分の死の意味を理解する事もなく散っていったはずです。
そんな彼らのことを考えると、本当に胸が締め付けられます。

今、私達にできることは何でしょうか?
この歴史を正しく理解する事。そして、二度と国が誤った道を歩まないように意識していなければいけない事だと思います。
なぜなら、日本人だけでなく戦火に巻き込まれた全ての国の人達が、同じような思いをしたわけですから。

祖母の箪笥の上には、今もお兄さんの写真が大切に飾ってあります。
私はその写真を目にする度に、今後一層この思いを強くしていくでしょう。

今年は日本が戦争に負けて、新しい歴史を歩き出してから60年目です。

2005.8.15


* この記事は2005年8月に投稿したものを編集
し直してあります。

* 私の祖母は2005年の11月に永眠しました。話を聞いた3ヶ月前までは、まだしっかりしていたのです。
今となってはもう話を聞く事が出来ない事は、本当に残念でしかたありません。

コメント

  1. sig より:

    こんにちは。ブログに来て下さってありがとうございました。
    戦後世代が過半数を超えた現在、こうした「記憶」はきちんと「記録」されていく必要を感じますね。

  2. Yubarimelon より:

    sigさん、こんにちは。
    こちらこそありがとうございます。
    読ませていただいたblogで郷土への思いがとても強く伝わり感動しました。
    これからも読ませていただきます。

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