城を巡る旅(上田城)

世に三名城と呼ばれるのは名古屋城、大阪城、そして熊本城ですが、調べてみるとはっきり定まってるというわけではないようです。姫路城が加わったり、はたまた松本城だったり。

定義も曖昧で、一般には加藤清正と藤堂高虎が普請した城郭のうち特に機能美が優れている事からこの三つが選ばれてるようです。ただ、最も優れていた江戸城を別格にして、次席扱いが三名城という事のようで巷間で使われている意味とは少し違うようです。

大阪城と熊本城は実際に戦を経験した事のある城です。名城と言うに相応しく攻めがたく寄せ手を苦労させたと歴史に記されています。残念ながらその際に消失し、現在見る事が出来るのは昭和の時代に復元された姿というわけです。(秀吉の大阪城は大阪夏の陣で、徳川大阪城は鳥羽伏見の戦の後消失。)名古屋城は戦場にはなりませんでしたが、太平洋戦争末期に米軍機の爆撃によって消失。現在の姿は同様に復元されたものです。(有名な金の鯱だけは避難させてあったので今も本物を見る事が出来ます。)

さて私個人が考える名城の定義とは、やはり戦において寄せ手の猛攻を退けた城。それは兎にも城の造り手の意中に攻め手がはまってしまった城とも言えるかと。

多くの城が造られ、そして消えていった戦国時代。私は守り手より遥かに多い徳川の大軍を史上二度も退けた上田城は天下に鳴り響いた名城中の名城の一つであると思います。

上田城を訪れたのは2001年5月。実は国宝松本城を見学に行く途中で立ち寄ったオプション的なものでした。しかし、私には上の理由からも松本城以上に見学したいという強い思いがあったわけです。

今私達が見る事の出来る上田城は、真田氏の後に上田に入った仙石氏によって造られた城郭の一部(本丸の北、南、西の櫓)とそれに伴う復元された東虎口櫓門(大手門)です。

築城された時より本丸に天守が存在したかどうかは不明のようです。その後も造られる事なく明治維新を迎えていますが、縄張りに関してはほとんど真田氏が築いた当時と大きな変化はないようです。

この上田城の見所はなんと言っても敵の侵入を拒むための構えです。まず、要の本丸を南側に置いてあるように千曲川の天然の断崖絶壁を取り込み、南側はほぼ完璧といえる防御を形成しています。今日川は城を迂回するように流れを変えていますが、 この場所の尼ヶ淵という名称から上田城は尼ヶ淵城とも呼ばれていました。ここは現在でも進入が難しかった当時を偲ばせます。又内堀も小さな上田城(大阪城や姫路城の規模に比べて)にしては幅が広く容易に攻略出来なかったと想像できます。

北と西にも川を引き込み総構えとしています。唯一の攻め口である東側からの攻撃を考慮して、城下町の通りは直線ではなく、ジグザクに区画し、湿地帯も加えて大軍では攻められないように工夫されていました。

上田城を築いた真田昌幸は武田家の家臣でしたが、主家滅亡後は家名存続のため、時節の変遷に伴い領主を変えて生きのびてきました。しかし、天正十三年(1585)徳川家の傘下にいた時、真田の領地である上州沼田を真田家に無断で徳川は北条との和睦の条件に譲渡すると決めてしまいます。この事をきっかけに徳川氏と敵対。

同年八月徳川家康は7000の兵で真田討伐を行いました。これに対して真田側は2000の守り。(長男信之が篭る支城に800。更に各地に分散させた兵の配置の為上田城には400程度の兵しかいなかった。)

昌幸は大軍を誇る徳川軍を力で防ごうとはせず、200余りの兵で槍合わせをしては引き、敵方を二の丸まで進撃させました。勢いを得た徳川勢は計り事も疑わずに一気に城を落とそうとします。ここで昌幸は進入路である東側の城下町に火を放ち退路を遮断。浮き足だった徳川方に城門上から丸太や弓、鉄砲で応戦。更に配置してあった伏兵や信之の支城の兵を横から攻めさせました。陣が崩された徳川勢はまさに「下戸に酒を振舞うが如し」(三河物語)となり、撤退するしか出来ませんでした。徳川の戦死者は1300以上で真田側はわずか40人ぐらいだったそうです。

この第一次上田合戦で昌幸の名声は高まり、信州の一領主から一躍大名へのstepになったいう事です。

そして慶長五年(1600)上杉討伐の為、家康の陣にいた真田親子は石田三成が挙兵した事を知るや信之を東軍に残し(徳川四天王の本田忠勝と婚籍関係にあった、又は家名存続の為とも。)、次男信繁(幸村)と共に西軍に寝返り上田城に篭城します。関が原へ向かう為に中仙道を進む徳川秀忠と38000の軍勢は途中の上田城を取り囲みます。しかし、わずか2000の兵と地形を利用して再び徳川勢を翻弄。簡単には上田城を落とせないと悟った秀忠は押さえを残して関が原に急ぎますが、天候の悪化もあり決戦に遅参するという大失態を演じる事になってしまいました。この時の家康の怒りは凄まじく、しばらく秀忠は口をきいてもらえなかったという事です。

関が原の後、紀州九度山に信繁と共に蟄居させられた昌幸ですが、いずれ大阪と江戸が戦になる事を見越して再起を期していました。しかし、病には勝てず大阪冬の陣の3年前に亡くなりました。

私達がお城を見学すると「国破れて山河あり」といった詩を思い起こす事が度々あります。ですが、この上田城に限って言えば決してそんなイメージは沸いてきません。国や領民の運命を左右する舞台となる城郭ですが、この城にはどちらかというと暗いイメージはなく、それよりもどんな大軍であろうと落とすことは出来ないぞという気概のようなものが伝わってきます。

現在二の丸跡は公園として市民の憩いの広場になっています。昌幸のバイタリティ溢れる人生を想いながらそこを散策していると、私にまで戦国時代に生きる情熱のほんの一部分が伝わってくる、そんな錯覚を起こさせてくれました。

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