松平肥後守容保

img_874800_5372241_0.jpg

夏目漱石の小説「坊っちゃん」の中で、主人公の同僚である山嵐先生は「強情な奴」として登場します。それは彼が実際に物語の中で強情っ張りなだけではなく、会津出身者だからというのも理由になっているのは、読んだ人にはわかるでしょう。

この小説が発表された当時、会津の人のことを「強情っ張り」だというイメージが国内にあったかどうかは定かではありません。
しかし、少なからずそういうイメージを持つ理由はあったように思えます。

それは慶応四年(1868)の戊辰の役の際、新政府に対し仇名す賊軍の巨魁として討伐さたことや、その後も賊徒という冷たい目で見られ、辛酸をなめ続けた会津の人のことをいつしかそう呼ぶようになったのではないかと。

同年八月二十一日猪苗代湖北東の母成峠に板垣退助率いる新政府軍三千が殺到。
それに対してわずか八百の守備隊は兵力と武器の優劣に圧倒され崩壊。
新政府軍は雪崩の如く、若松城を目指します。

二日後、ろう城の準備も終わっていなかった城下は混乱の極みに達します。
(主力の青壮年の藩士達は四囲の国境へ出撃していた為、残っていたのは老人、女性や子供ばかりだった。)
城主松平容保以下約五千の士族(うち婦女子六百)は城内に入場しますが、それ以外の五十家族二百三十人の女性子供達は足手まといになることを恐れ、この日のうちに自害しています。
(白虎隊の悲劇もこの日に起こっています。)
そして一ヶ月後の九月二十一日、容保の説得により城を開城するまで、徹底抗戦しました。

最後の将軍徳川慶喜が早々に水戸へ謹慎してしまった為、薩長の倒幕派は維新革命の最大の生贄として会津藩主松平容保を選ぶのは当然でした。
しかし、文久二年尊皇攘夷でテロの吹き荒れる京都の治安を回復する為に、やむなく守護職を拝命した容保に何の罪があったというのでしょう。
池田屋事件をはじめ、多くの志士を斬った新選組を配下にしていたからでしょうか。
元治元年(1864)の禁門の変では薩摩も共に長州と戦っているというのに。

聡明な容保は自分が京都守護職を受けた時点で、会津藩を滅ぼすかもしれないということはある程度想像できていたかもしれません。
それでも、固辞し続けていた守護職を拝命せざるを得なかったのは、松平会津の藩祖保科正之が作成した「家訓」があったからに違いありません。
この家訓は会津藩が戦争に負け、領地を没収される日まで藩主と藩士達全ての精神的支柱であったのは言うまでもありません。
全十五条の最初に
「大君の儀、一心大切に忠勤を存ずべく、列国の例を以って自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず」があります。
すなわち、徳川将軍に対しての忠義は他の藩と同じ程度ではいけない。もし、これに逆らうような会津藩主が現れたら決して従ってはいけない、という意味です。

どんなに守護職拝命を固辞し続けても、最後にはこの家訓があったために受けざるしかなかった。藩の重臣達も容保が、この家訓に従うという覚悟を固めた以上、止めることはできませんでした。

会津藩はこの家訓による徳川家の藩屏となることを、頑なまでに守ろうとした為に滅びの道を進むという悲劇に見舞われたのです。
本来、将軍家の一番の頼みの綱であるべき御三家(尾張、紀州、水戸)ではなく。

明治三年(1870)、新政府に領地を没収され、津軽十南への転封を命ぜられます。
この時2800戸15000人が移住しました。23万石の城地を失い、3万石(実質7千石)へ。
しかも、当時は不毛な土地であった為、この移住は凄惨なものでした。それでも藩士家族は稗、粟、豆、仕舞いには犬の死骸を食べてまで耐え続けました。現在も地元には「会津ゲダガ」「会津のハドザムライ」などの伝承が残っている程です。(ゲダガは毛虫の事、山菜や豆ばかり食べていたため。)

作家司馬遼太郎は「幕末の会津藩がなかったら、僕は日本人を信用できなかった。」と述べています。
太平の世が過ぎて、失われつつあった士魂と義は会津藩によって何とか面目を保つことが出来たわけです。

「坊っちゃん」が発表された明治三十九年(1906)は維新の革命もすでに昔ではありましたが、まだまだ薩長の勢力が残っている時代でもありました。
会津の人々の精神とその行動を美しいと、声を大にして言うのは出来ないことではなかったかもしれません。ですが、彼らが自らの規範を決して曲げようとしないその美徳に対しては、言葉を換え「強情っ張り」と称したのはこうした訳があったのだと一つには思います。

そして現代においては、会津藩の歴史こそ私達日本人が常に心を揺さぶれ、滅びることを知りながらも忠節心は失わなかったと語り継ぐことが出来る唯一の土地であるとも言えるでしょう。

参考文献:「保科正之」中村彰彦著、「ある明治人の記録」石光真人編著

「強情っ張り」・・・自分の考えを強く主張して、他人の意見を聞き入れないこと。そういう人やそのさま。


昭和三年(1928)、容保の四男恒雄の長女勢津子が大正天皇の第二皇子秩父宮雍仁親王に嫁ぎます。この時こそ、本当に会津の人々が賊徒という目から解放された瞬間だったのではないかと思えるのです。

error: Content is protected !!