城を巡る旅(上泉城)

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上州群馬県は戦国時代、北の上杉、西の武田、そして南は北条という国境であったため、戦乱の絶えない地域でした。それ故、各地の小豪族達は自らの家名存続のため、昨日は北条、今日は上杉というように自分達に有利な方の大名に付き従う事が日常茶飯事でした。

西上州箕輪城の長野業正は関東管領山内上杉家に属し、武田信玄も一目置く程の武将でした。信義に厚く、主に対しては死ぬまで変節する事はありませんでした。そのため、信玄も何度か箕輪城を攻めたものの、業正が生存してる間は上州を攻め取れない事が判ったので、その後は侵攻して来る事はありませんでした。

その主である関東管領上杉憲正は、天文十五年(1546年)に8万の大軍で北条氏の河越城を包囲するも、北条氏康にいわゆる河越夜戦で大敗を喫した事を契機に勢力が衰退。越後の長尾景虎に保護を求め身を寄せました。

憲正は落ちぶれはしたものの何とか北条に対して一矢報いたい。そのため関東管領の職を景虎を養子に向え譲る事にします。ここに越後上杉家が誕生し、関八州に進出する名分が生まれ、武田北条上杉の三大名による関東三国志が勃発する事になります。

一方、業正は上杉憲正が上州を去った後も北条氏には付かず、小豪族をまとめ対抗しました。その長野氏の十六槍と呼ばれる猛者の中に上泉信綱がいました。業正亡き後も嫡子業盛の下で奮闘しました。しかし、永禄九年(1566年)に武田信玄2万の大軍に箕輪城は攻められ長野氏は滅亡。西上州は武田家の支配を受ける事になります。

さて前置きがかなり長くなってしまいましたが、上泉信綱のその後は以前書いたとおりです。

暑い最中ではありましたが、信綱の銅像を見学しに上泉城址を訪れてきました。

農業や牧畜を営んでる方の住居が多く点在する閑静な場所に上泉自治会館があり、その正面入り口入った所にまだ真新しい上泉信綱の銅像があります。

静かに下段に構えたその姿勢からは相手を威圧するのではなく、包み込むような暖かさを感じます。

しめやかな地でありながら多くの人に尊敬されている剣聖を、動ではなく静で表現したこの銅像に私は感動しました。

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現在上泉城の面影を残すものは史跡に指定されている上泉郷蔵だけです。残念ながらここが城址であると説明されなければ認識すら出来ないかもしれません。

しかし、西林寺には信綱のお墓もあり、ここが間違いなく上泉伊勢守の生誕した場所であり新陰流発祥の地である事は疑う点は何一つありません。

この日も気温が35℃くらいあったため長くはいられませんでしたが、見学できて良かったと思いました。

補:信義の厚い長野業正の逸話として、信州上田の真田氏の祖真田幸隆も長野氏に身を寄せていました。しかし、関東管領家が越後に逃亡した事で武田氏に寝返ろうとし、長野氏の下を離れます。途中業正からの手紙が届き、残してきた妻子の安全と幸隆の再起を期待するという内容に大いに感動したという事です。

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