私的考察「野木宮合戦は寿永二年か?」 

前回のblogで棚上げしておいた桐生郷土史家の大瀬祐太氏著「桐生六郎の周辺 ~『吾妻鏡』における或る逆臣の正当性について~」の読後における「桐生六郎は不忠の臣か?」の見解を書きたいと思います。

この著作はタイトルを含む全12の項目によって構成されています。六郎の主君である足利俊綱、源姓足利義清、新田義重ら平安時代末期の上野下野の武士団についてです。

勿論一番ページを割いているのは本書タイトルになっているテーマに関してなんですが、その中でもポイントが置かれているのは以下の一点に絞られます。それは現在、史学界の定説となった昭和37年(1962)に石井進氏が発表した「志太義広の蜂起は果たして養和元年の事実か」という論文に見出される疑問点と矛盾点を遺されてる資料を基に一つ一つ検証している処です。

志太義広は常陸国(茨城県稲敷市)を本拠にした武将で、実は源頼朝の叔父にあたります。治承4年(1180)に頼朝が平家打倒の旗揚げをするも、甥を見下して配下には入りませんでした。逆に同じ北関東の平家方である足利忠綱と連合して反頼朝の決起をします。鎌倉を目指して進軍する途中の下野国野木宮で味方に率いれていた小山朝政が叛旗(実は最初から頼朝側であった。)を翻した為、義広は鎌倉軍に敗れてしまいました。

『境内にある樹齢1200年を越える大イチョウ。合戦を目の当りにした歴史の生き証人。』

これが野木宮合戦の概要なのですが、この戦の後関東からは頼朝に対抗する勢力が一掃された事で西の平家に対して戦力を集中する事が出来るようになったのです。

さて、吾妻鏡には志太義広の蜂起と野木宮合戦は治承5年(1181)の記述の中で以下のように記されています。

2月28日乙巳: 志太三郎先生義廣、濫悪に常陸の国鹿島社領を掠領するの由、これを聞こし食すに依って、一向御物忌の沙汰たるべきの由仰せ下さる。散位久経これを奉行すと。(以下略)

閏2月23日己巳:義廣三万余騎の軍士を卒い鎌倉方に赴く。先ず足利の又太郎忠綱に相語る。忠綱本より源家に背くの間、約諾を成す。また小山と足利と、一流の好有りと雖も、一国の両虎たるに依って、権威を争うの処、去年夏の比、平相国一族を誅戮すべきの旨、高倉  宮令旨を諸国に下されをはんぬ。小山則ち承引す。忠綱に語るに、その列に非ず、太だ鬱憤を含み平氏に加う。(中略)これより先朝政本宅を出て、野木宮に引き籠もらしむ。義廣彼の宮の前に到るの時、朝政計議を廻して、人をして登々呂木澤・地獄谷等の林の梢に昇らしめ、時の声を造らせむ。(以下略)

石井氏は前述の論文の中でこれを表記間違いと指摘し、義広の蜂起及びそれに続く野木宮合戦は養和元年ではなく実際はその2年後の寿永2年(1183)であったとする説を発表。これが現在史学界をはじめ、栃木県及び群馬県の正史としても定着しています。(注1)

その理由として吾妻鏡の建久3年(1192)9月12日の記述を読むと

9月12日辛巳:小山の左衛門の尉朝政、先年の勲功に募り恩沢を給う。常陸の国村田下庄なり。而るに今日政所の御下文を賜る。その状に云く、将軍家政所下す 常陸の国村田下庄(下妻宮等)の地頭職に補任する事

左衛門の尉藤原の朝政
右去る壽永二年、三郎先生義廣謀叛を発し闘乱を企つ。爰に朝政偏に朝威を仰ぎ、
独り相禦がんと欲す。即ち官軍を待ち具して、同年二月二十三日、下野の国野木宮
の辺に於いて合戦するの刻、抽んで以て軍功を致しをはんぬ。仍って彼の時地頭職
に補任する所なり。庄官宜しく承知すべし。遺失すべからず状、仰せの所件の如し。
以て下す。
建久三年九月十二日      案主藤井
令民部の少丞藤原       知家事中原
別当前の因幡の守中原朝臣
下総の守源朝臣

更に元久2年(1205)8月7日の記述の中には『随って去る寿永二年、志田三郎先生が蜂起を対治するの間、都鄙動感す。』と書かれています。

又、これを補完する証拠として松平甚則氏所蔵文書の小山朝政宛の下文を2枚紹介しています。

私は石井氏の発表した論文は読んでいませんが、氏の著書である「日本の歴史 7巻 鎌倉幕府」(中公文庫)の中でその主張の一部を知る事が出来ました。

ここまで証拠固めをして、野木宮合戦寿永2年論を発表した石井氏ですが「以上の推論を確定するに足るさらに有力・的確な史料の存在を知らない。」と100%確信があるというより、あくまで推論にとどめているといった言い回しをしています。

もっとも私のような素人がこれ程の証拠を突きつけられれば、正直完全に納得せざるを得ないわけなんですけど。しかし、ここで問題になってくるのが主君足利俊綱を斬り、その首を鎌倉に持参しながらも頼朝に処刑された桐生六郎の事です。

前回のblogと重複してしまうので吾妻鏡の記述は省略しますが、野木宮合戦も治承5年の記述であり六郎が俊綱を斬り、鎌倉で処刑されたのも同じく治承5年の記述なのであります。

石井氏は志田義広と足利俊綱及び桐生六郎の記述に関しては別問題として捉えていたようです。(注5)つまり、俊綱に関する記述に関しては寿永2年には言及していない。即ち、吾妻鏡の記事の通り治承5年に起きた事としています。

ですが、大瀬氏は著書の中で石井氏の説は成る程尤もの事ではあるが、義広と俊綱を別問題として捉える事には疑問点があるとし、その後に続く桐生六郎の顛末に関しては辻褄が合わないと書いています。

それは以下の記述から明らかになります。吾妻鏡には前述の野木宮合戦の記事の閏2月23日己巳のすぐ後に

閏2月25辛未:足利の又太郎忠綱、義廣に同意せしむと雖も、野木宮の合戦敗北するの後、先非を悔い後勘を恥じ、潛かに上野の国山上郷龍奥に籠もる。郎従桐生の六郎ばかりを招き、数日蟄居す。遂に桐生の諫めに随い、山陰道を経て西海方に赴くと。(以下略)

これは私が前回のblogで書いた野木宮合戦で敗北した俊綱の嫡男忠綱を六郎が説得して九州に落ち延びさせた記述です。この2月25日の記事も2年後の1183年の事とするなら、1181年9月18日に処刑されたとある六郎の存在に矛盾が生じてしまうと大瀬氏は指摘しているわけです。

では、吾妻鏡の治承5年の六郎の処刑までの記事内容もそっくり2年後の寿永2年の記述間違いであったとするならどうでしょう。ここで大瀬氏は養和元年(1181)9月18日(前回blog参照)の記述を取り上げ、その中で書かれている下文に注目して、

下す 和田の次郎義茂が所俊綱の子息郎従たりと雖も、御方に参向する輩を罰すべからざる事 右子息兄弟と云い、郎従眷属と云い、桐生の者を始めとして、御方に落ち参るに於いては、殺害に及ぶべからず。また件の党類等が妻子眷属並びに私宅等、損亡を取るべからざるの旨、仰せらるる所下知件の如し。                        治承五年九月十八日

これは実在したはずの公文書を写して吾妻鏡に掲載したわけだから、記述間違いである可能性は極めて低いとしています。(注6)北条氏が編纂したとはいえ、一応鎌倉幕府の正史である吾妻鏡の中にはこうした下文をそっくり記載している箇所が実に多いからです。

定説となった石井氏の論拠と、それに対して疑問を投げかけた大瀬氏の論拠を簡単ではありますが書いて見ました。残念ながら大瀬氏も著書の中では疑問点、矛盾点を呈しただけで、それを完全に覆せる史実を見出す事は出来ていません。当然といえば当然なのですが、現時点では新史料の発見もないわけですし、あくまで推量という形を取らざるを得ないわけです。

しかし、桐生六郎は不忠の臣なのか?という疑問を持った私にしてみれば、大瀬氏の著書は本当に勉強になりました。実際、この書を読むまで吾妻鏡志田義弘の蜂起と野木宮合戦の記述が2年後の誤りであり、それが定説になっている事さえ知らなかったんですから。

上述のblogに書かれた論拠は全てではありませんが、素人そのものの私にしてみれば十分です。ここからは恥も憚らずに大瀬氏も試みなかった大胆な推理を私は展開してみたいと思います。

最初に大瀬氏の著書にも判り易く吾妻鏡を年表にしてあるので、それを更に簡潔に必要な部分のみ抜き出して私も年表を作ってみたいと思います。

①2月28日:志田義広が鎌倉の頼朝に対して決起。鹿島神宮を占拠。

②閏2月23日:義広3万の軍勢で鎌倉に進軍。対立関係にある足利忠綱と小山朝政も味方に率いれる。しかし、下野国野木宮で小山勢が叛旗を翻し志田足利軍は敗走。

③閏2月25日:足利忠綱、野木宮合戦の敗走後上野国に身を隠すが郎党の桐生六郎に促されて山陰へ落ち延びる。

④9月13日:桐生六郎が主君足利俊綱を斬った事が和田次郎に知らされ、首を即刻持参するよう下知される。

⑤9月16日:六郎、俊綱の首を鎌倉に持参す。俊綱本人の首である事が確認される。

⑥9月18日:六郎、譜代の臣が主人を斬る事は賞にはあたらないとして斬首され、俊綱の首と共に晒される。但し、俊綱の領地は収公するも足利、桐生の妻子郎党及びその家屋等は安堵すべしという下文が発行される。

以上全て治承5年養和元年の吾妻鏡記述より抜粋。

定説となった義広の蜂起と野木宮合戦を2年後とするなら①~③は⑥よりも後の出来事となります。しかし、それでは⑥で死んだはずの六郎の存在が可笑しな事になってしまいます。では、④~⑥も同様に2年後であればとしたい処ですが、⑥の下文の記述は正確である可能性が高いと。

この歴史のparadoxを起こさせている③と⑥の桐生六郎の存在を推理できれば、「桐生六郎は不忠の臣か?」の問題にも決着をつける事が出来るはずです。

私が注目したのは⑥の下文の内容です。『俊綱の子息郎従たりと雖も、御方に参向する輩を罰すべからざる事 右子息兄弟と云い、郎従眷属と云い、桐生の者を始めとして、御方に落ち参るに於いては、殺害に及ぶべからず。』俊綱の子息=忠綱であるなら、六郎の子息兄弟も存在していたと思えます。

ならば、⑥で処刑された六郎の名を継承した人物がいたはずではないか?

桐生六郎の本名は藤原忠利だという事です。おそらく治承4年(1180)宇治川の橋合戦の恩賞として桐生への入植が認められた後に桐生氏を名乗ったのだと考えられます。六郎は代々嫡男が受け継ぐ名であったのではないでしょうか。六郎の子息兄弟達の安堵が認められたのなら、亡き六郎の名を受け継ぐ人物が現れたとしても不思議ではありません。

更に私はその2年後に起きた野木宮合戦で忠綱が志田義弘と共に決起出来たという事は忠綱自身が非常に大きな戦力を持っていたからだと考えます。⑥の時点で父俊綱の領地が幕府に没収されていたにも関わらずです。これは藤姓足利氏の領地の中で、忠綱がすでに独立した領地と家臣団を持っていなければ出来なかった事の証明です。私はそこから推測して、六郎の名を受け継ぐべき人物がかなり以前から忠綱の側に仕えていたと考えます。そして、二人がとても強い結びつきを持っていた事も後の③の事実から予想出来ます。

当たり前ですが、この二代目(?)六郎の事はどの史書にも見当たりません。大瀬氏も吾妻鏡の記述だけから③と⑥の六郎が別人物である可能性はないとしています。しかし、六郎の名を継承した人物が存在しているとするなら、今までの疑問がほとんど解けてしまう事にもなるのです。

まず、前回blogで紹介した清水義男氏の「桐生六郎の思案」という民話です。私は当初地元びいきの昔話として片付けてしまいましたが、これが俄かに現実味を帯びてきます。足利俊綱は自らの首を鎌倉に差し出す事で六郎に頼朝暗殺の機会を与えます。頼朝暗殺はすなわち藤姓足利氏の存続につながるからです。自分が死んでも嫡男忠綱の存在があったからこそ、この大胆な策を実行出来たのでは。そして、六郎が仮に失敗したとしても、その遺志を継げる者が忠綱の側に仕えている。それゆえ無謀ともいえる仕事を与える事が出来たのではないかと。それも全ては藤姓足利氏のため。

命を懸けた俊綱の策は頼朝に看破され、六郎も斬首されてしまいました。それは俊綱と六郎の首が一緒に晒されたという『景時則ち俊綱が首の傍に梟けをはんぬ。』という⑥の記述からこう推測出来ます。仮に六郎が自らの利のためだけで俊綱を斬ったのなら主君と一緒に首が晒されるという事は当時の慣習上ありえません。あくまで、俊綱の策で頼朝の首を取りに来た刺客として主従を共に晒したと考えるのが普通ではないでしょうか?(注7)

二人が死んだ後も勢力が減衰したとはいえ、嫡男忠綱の下には藤姓足利家臣団が存続していたはずです。勿論、初代六郎の遺志を継いだ二代目六郎もです。残念ながら、志田義弘と共に直接鎌倉を攻めて頼朝を倒すという目論見は野木宮合戦に敗れた事で破綻してしまいました。

しかし、二代目六郎は初代六郎の遺志を全うするため藤姓足利氏存続に力を尽くします。③の記述より、忠綱を生かすため説得し九州へ落ち延びさせるのです。そして、ここまでが歴史の中で桐生六郎に与えられた役割であったのではないかと私は思うのです。主君を斬った不忠の臣として歴史の闇に消えて行ったのではなく、先代より受け継いだ主君の血筋を生かす事を全うする事で役割を終えたのだと。

勿論、史料に基づいたフィクションではありますが。将来、吾妻鏡に関する新史料の発見があれば、もしかしたら定説も覆り、真実が陽の目を見るかもしれません。(注8)そんな日が来る事を期待しつつ今回は筆を擱きたいと思います。

注1:治承五年の七月に元号が養和に改元されたので同じ1181年に二つの号が存在しています。また、幕府開府後の頼朝はあくまで武士による日本国の統一を目指した事から朝廷が定めた号に従う事を良しとせず、文書等にも治承をそのまま使用しています。

注2:くだしぶみは平安時代から中世、院の庁・摂関家・将軍家・政所などから、それぞれの支配下にある役所や人民に出された公文書の事。

注5:「日本の歴史 7巻 鎌倉幕府」88P参照

注6:石井氏も:「日本の歴史 7巻 鎌倉幕府」169Pの中で吾妻鏡に掲載されている文書の正確性を認めています。

注7:大瀬氏も著書の中で六郎を刺客列伝の荊軻に準え、不忠の臣ではないという希望的推測をしています。

注8:石井氏が発表した寿永2年説ですが、当の吾妻鏡にはその他の寿永2年の記述は一切存在していません。仮に記述があれば、その前後から石井氏も定説を一層確信出来たかもしれません。しかし、吾妻鏡よりも確かな史料とされる公家衆九条兼実の日記「玉葉」の寿永2年の項目から、この年は全国的な飢饉の一年であった事が確認されています。大瀬氏はこの事実からも、戦をするより食べる事のほうが重大問題だった年に志田義弘が決起した事には疑問があるとしています。

補:野木宮合戦後の足利忠綱について

今回のblogは桐生六郎の事を自分なりに完結するつもりで考察してきました。しかし、書き進める内に本当に完結させるためには藤姓足利氏の最後を見届けなければ終われないとも思うようになったのです。すなわち、それは藤姓足利氏最後の武将足利忠綱の終焉の地を訪れる事でありました。

九州へ落ち延び再起しようとした忠綱でありましたが、その後の史料は一切ありません。伝承として残っている話では平家が壇ノ浦で露と消えた後、再び故郷の足利庄に戻ってきたようです。ですが、領地はすでに源姓の足利義兼(尊氏の祖先)の支配する処となっていました。義兼に追手をかけられた忠綱は現桐生市梅田町4丁目皆沢で殺害されたという言い伝えです。現在この地には忠綱を祭る皆沢八幡宮があり、忠綱と伝えられる御祭神像が祭られています。忠綱が殺害された時、白い犬が吠えていた事から今日でも住人は白い犬を飼う事を忌み嫌っているとの事です。

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