新選組総長 山南敬助

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新選組副長の土方歳三は自らを豊玉と号し、俳句を趣味としていた事は良く知られています。

その彼が文久3年(1863)2月8日、浪士組として京へ上る前に郷里の日野に四十一首の句をまとめた豊玉発句集を残していきました。内容に関しては賛否両論ありますが、鬼の副長というイメージではない、青年歳三を知る上での大変貴重な資料である事は云うまでもありません。(注1)

私は以前からその句集の中で気になってしかたない一首があるのです。

「水の北 山の南 春の月」

一見すると心地よい春の月夜を詠った何の変哲もない句のようですが、これが歳三が創ったものとなると見方も変わってきます。

「山の南」=山南敬助、と読めなくはないでしょうか。(注2)

句集に入れたくらいですから、歳三自身かなり気にいった一首だったに違いありません。と言っても特に山南敬助を意識して選首したわけではないのでしょう。なぜなら、友人の事を詠んだ句はこれ以外はありません。意識したのであれば、近藤勇や沖田総司の句があってもいいはずです。自分としてはかなり良く出来た一句だったいうのが選首の理由なんでしょう。

山南敬助は仙台伊達藩出身の浪人だと自称しています。江戸に出府し北辰一刀流の免許皆伝を得た後、近藤勇の試衛館に入門。そして、近藤や歳三らと同じように彼も自らの夢を抱いて浪士組に参加します。いや、むしろ試衛館の面々の中で誰よりも一番当時の日本を憂いていたと思えますから、熱い想いを胸に秘めていたに違いありません。(注3)(注4)

しかし、京は彼が夢に描いていた場所にはなりませんでした。攘夷の旗印の下、壬生浪士組を立ち上げたにもかかわらず、自分達がしている事といえば、不逞浪人の取締りばかりです。商家を襲う輩もいたとはいえ、その者達も言ってみれば山南と同じ尊王攘夷を志す志士であったのですから。

山南は自身と同じ志を持つ者を斬らなければならない矛盾に大変傷ついた事でしょう。何より近藤以外の試衛館の面々には上洛前から思想的な意識は希薄だった事もあり、浪士組としての活動に何ら支障をきたす事なく精勤していたようです。そのために、浪士組を抜けようにも抜けられないジレンマに陥り、京での日々は山南にとって苦痛以外の何物でもなかったでありましょう。

文久3年9月16日、同じ浪士組の芹沢鴨の暗殺に山南は参加しています。これ以後、近藤勇を中心とする試衛館派によって新選組は統率されます。と同時に彼の局内の公式記録も、その死の時まで一切姿を消してしまうのです。

現在、小説やドラマでは必ずといっていい程取り上げられる「山南敬助の脱走~切腹」は新選組を語る上では欠かせないエピソードではあります。が、この元治2年(1865)2月22日に彼が隊を脱走し局中法度により切腹したという記録は、その58年後の大正2年(1913)に永倉新八こと杉村義衛が自身の回想を小樽新聞の記者によってまとめさせた「新撰組顛末記」(旧題;新撰組永倉新八)により初めて世に紹介されたのです。ところが、平成10年に高知県で発見された明治初期に永倉自身が著した「浪士文久報国記事」の中では山南の死に関しては一切書かれていないのです。

大津まで彼を追い、隊へ連れ戻しその後切腹の介錯をしたという沖田総司が1ヶ月後の3月27日付で日野の佐藤彦五郎に宛てた手紙には「山南兄去甘六死亡仕候間、就而なから一寸申上候。」と軽く流すように書かれていて、死の原因については何ら明らかにしていません。(この前後、同様に日野へ出された近藤・土方の手紙にも山南の死については書かれていません。)

一方、新選組参謀の伊藤甲子太郎は彼の死へ「山南氏の割腹を弔うて」とし四首の和歌を捧げています。その中の一首「吹く風にしほまむよりは山桜ちりてあとなき花そいさまし」は近藤・土方の新選組運営に対して自身の信念を曲げてまで佐幕派路線に従うを良しとはせず、死を以って自分は勤皇の士である事を体現した山南を暗に讃えているとは詠めないでしょうか。つまり、ここにも隊規違反で死を命ぜられたという雰囲気は微塵にも感じられないという事です。

更に、それを裏付けるように当時西本願寺の寺侍であった西村兼文が明治22年(1889)に著した「新撰組始末記」で山南の死について「憤激ノ余り一書ヲ遺シ丑三月下旬終ニ自刃ニ臥ス」と書いています。新選組屯所を西本願寺に移転する問題で土方と山南が対立していた事は良く知られています。土方の強行で移転は決定してしまうわけですが、当地に詰めていた西村ゆえに事の真相は把握していたに違いありません。その文章からは隊の約に違えた事からの切腹というニュアンスは一切感じられません。むしろ、自らの意見が取上げられなかった事で面子を潰され、衝動的に自害したと読む方がしっくりくると思われます。

ここまで書いてくると、山南が隊を脱走し沖田に連れ戻されたという事はともかく、局中法度で切腹したというのは、後世創作された作り話だと推測せざるをえません。(注5)(注6)

思うに、ほとんどの隊士達は新選組に夢を賭けて入隊してきたはずです。夢を実現した者もいれば、破れた者もいました。しかし、彼ら全てがその瞬間瞬間には熱い想いを持って行動したに違いありません。けれど、山南敬助だけは別であったろうと思います。

勤皇の想いを胸に攘夷を志すつもりで京へ上った彼にとって、新選組という組織自体を否定せざるを得なかったと思うのです。試衛館時代の友人達を裏切る事も出来ず、鬱屈した日々を過ごす彼がとった人生の締め括りが自害であったいうのは、例えそれが体勢へ自身を訴える最後の手段だとしても悲しい結末ではあります。

屯所のあった壬生村で山南は子供や女性達から人当たりが良いので大変人気があったいう逸話が残っています。実際、彼の人間性が悪く書かれている史料は皆無といっていいほどです。おそらく、そんな彼の人柄を歳三も春の月に見立てて、

「私がまだ見た事もない(みず) 北の仙台から出て来た山南敬助は 春の月のように爽やかな男だよ」

と詠んだのに違いないと私は思うのです。

* 写真は鮮血に染まり、折れてしまった山南の愛刀赤心沖光の押し型。大阪高麗橋近くの岩木升屋に押し入った不逞浪士を山南が斬った事で会津公より恩賞を賜った事が記されている。この手紙は東京都町田市の小島資料館で見学することが出来ます。(ただし、複写品。)

注1:現在、豊玉発句集は日野の「土方歳三資料館」に収蔵されています。

注2:新選組研究の第一人者である伊藤成朗氏をはじめ多くの方が、この句が山南敬助を詠ったものであると書いています。

注3:一般に山南は「やまなみ」と呼ばれているようですが、残されてる史料には「三男」や「三南」と記されている事から「さんなん」というのが正確な読み方ではないかとも云われています。どちらにしても、「山南」姓は伊達藩の上中家士名簿には見当たらない為、下級藩士出身であろうと考えられています。

注4:北辰一刀流の祖千葉周作は水戸藩の徳川斉昭公の依頼で水戸での出稽古が評判を呼び、江戸の道場も在府の水戸藩士が多く入門しました。その為に道場では尊王攘夷思想がどこにもまして強く、水戸藩士以外の門弟達も勤皇に感化されたようです。この流派の出身者には清川八郎や坂本竜馬等幕末に名を馳せる多くの志士がいます。

注5:池田屋事件の前後、後に御陵衛士となる阿部十郎が近藤勇に反発して隊を脱走しています。しかし、同じく後に副長助勤となる谷万太郎の縁から復帰し伍長にまで昇進しているのです。この事から「局を脱するを許さず」という局中法度自体の存在が疑わしいのと、あるいは法度が近藤らの都合で適時運用されていたのではないかとも考えられています。どちらにしても、阿部が復帰したのは山南の死後であった事から考えても、法度に背いての切腹という永倉の「新撰組顛末記」記述の信憑性には疑問を挟む余地があると思われます。

注6:佐藤彦五郎と共に新選組を江戸から支えた小島鹿之助は明治2年(1869)に近藤と土方を称える書「両雄士伝」を書き残しています。その中でも山南の死については「有故昌宣使其自儘、年三十有三。」(訳あって近藤に切腹を命ぜられた。)と、いとも簡単に書かれてるに過ぎません。小島は試衛館時代に近藤の代理として出稽古に多摩を訪れた山南とは特に親しく交流したとされています。それがこの簡潔な表現に留めたのには、近藤・土方を称えた書にそぐわないとして真相を書く事が出来なかったと推測するしかありません。

また、新選組伍長の島田魁が維新後書いた「島田魁日記」にも山南の死に関する記述はありません。この件からも山南の死を書かなかったのではなく、書けなかったと解釈する方が自然ではないでしょうか。「浪士文久報国記事」の永倉にとっては試衛館時代からの友人の死であり、島田にとっては新選組結成時からの幹部の死という大事件に関して書き忘れるという事は到底ありえません。意図的に書かなかったとする方が納得がいきます。とすれば隊規に反した処罰による死なのか、それとも組織の体制に対する抗議として自らの信念を体現した死なのか。近藤・土方の取った佐幕派路線を一緒に走った二人にとって、後者は山南にとても近いポジションにいただけに書き難かったに違いありません。それは山南敬助という友人を、新選組を否定して死についた人物として後世に書き残したくない、誰の目にも触れて欲しくない事件だったからだと思われるのです。「サンナン」さんとして、そっとしておいてあげたかったからなのではないでしょうか。

コメント

  1. もく。 より:

    こんにちわ
    お越し頂きありがとうございました。
    Yubarimelonの記述、
    読ませて頂きましたが、すごいですね。
    ご自分で、歴史をよく研究されており、読んでいると思わず
    引き込まれてしまいました。
    私は、土方歳三という人がどんな人だったのか、少しでも知りたいという
    目的で資料館まで行きました。
    得るものはあったと思っています。
     また行きたいと思っています。

  2. Yubarimelon より:

    こんにちわー。
    こちらこそ、nice!とコメントありがとうございます。
    書籍の知識だけからでなく、実際の現場に立ってみて歴史を深めるというのはとても意味があると私も思います。
    また日野をぜひ訪れてみたいと思っています。

  3. ビラーゴ より:

    こんばんは。最近、幕末や新撰組にはまっていて、いろいろと調べたりしているのですが、Yubarimelonさんの深い洞察には感動いたしました。
    新撰組に関する資料はそれこそ山のようにありますが、慎重に選ばなければならないな、と感じています。
    また寄らせていただきます。

  4. Yubarimelon より:

    ビラーゴさん、コメントありがとうございます。
    私の手元にある歴史の書籍で一番新選組関連のモノの数が多いです。ですが、それらを全て通読したというわけではありません。
    気が向いた時とか、何か知りたい記述が思い浮かんだ時にその部分だけを集中して読むといった感じです。人それぞれなのでしょうが、私はそんな歴史の楽しみ方が自分に合っているようです。
    ぜひまた、遊びに来て下さい。

  5. sig より:

    こんばんは。
    すばらしい洞察ですね。
    私は歴史には疎いのですが、維新史はついこの間のことのような気がして若干興味があります。
    また、生まれが長岡ですから、幕府を支援した新撰組にも興味があります。
    歴史とは直接関係ありませんが、もし、よろしかったら・・・
    http://fcm.blog.so-net.ne.jp/2008-07-06

  6. Yubarimelon より:

    sigさん、コメントありがとうございます。
    早速blogを訪問させて頂きます。

  7. なみ より:

    山南敬助について興味深く読ませていただきました。
    それにしてもなぜ山南だけが素性が曖昧なのでしょうか?
    大幹部だったにも関わらず、出身藩すら疑問の余地がある。
    近藤、土方らにとっても付き合いが長くなるにつれ、山南は得体の知れないところがあるとか、素性を偽っているのは?という疑いが起こりそうな気がします。また、いつ頃から近藤&土方と山南の間に亀裂が入り始めたのかも気になります。
    さらに伊東甲子太郎が山南の死を悼んで詠んだ4首のうちの2首
    「吹風に しほまむよりは 山桜 散りてあとなき 花そいさまし」
    「春風に 吹き誘われて 山桜散りぞて人に 惜しまるるかな」と
    千載和歌集にある源八幡太郎義家の
    『吹く風を勿来の関と思えども道もせに散る山桜かな』
    が何か関係があるような気がしてなりません。
    義家が奥州征伐に向かう途中、のちの泉藩領地内で詠んだ和歌ですが、学識のある伊東がこの歌を知っていて、なぞったような鎮魂の和歌を山南に捧げたというのは飛躍のし過ぎでしょうか。
    さらに山南は伊東にだけ素性を打ち明けたのではとも考えてみました。つまり泉藩士だったのでは?ということです。
    当時の泉藩主本多家の家紋は光縁寺と同じ立ち葵紋です。
    山南が立ち葵紋を「我が家の家紋』と言ったと言われていますが、
    それは主家のもんであったのでは。
    また泉藩では当時、一刀流剣術を採用。
    山南が江戸で小野派、北辰の両派をおさめたいと思ったのではないかと想像しています。
    すべては私の妄想に近い仮説ですが、もし、お時間があればご意見を伺いたくコメントを残しました。

  8. Yubarimelon より:

    なみさん、コメントありがとうございます。
    私の方こそ大変興味深くコメント読ませていただきました。現代でも義家の勿来の歌は良く知られてるくらいですから、学識のある伊藤が知らなかったはずはありえないと思います。「吹風にしほまむよりは山桜」の歌も意識していたと考えるほうが自然ではないでしょうか。
    山南が実は泉藩の家臣であったというのも面白いと思います。本多忠勝を祖にするだけあって、戊辰戦争でも最期まで徳川方として戦った佐幕藩。山南が江戸に上府する前から勤王思想であったなら、脱藩してきた理由にもなりますし、素性を隠すために出身を近くの大藩伊達家と偽ったのにも納得がいきます。
    歴史というのは完全な真実を追求することもとても大切ですが、断片的な史実を結びつけて推理することが如何に面白いかと、私は常々思います。なみさんが今回の件を何かにまとめられて、いずれ発表する機会があればぜひ読ませて頂きたいと思います。

  9. なみ より:

    ご意見ありがとうございます。
    真剣に読んでいただいてとても嬉しいです。
    実は私はロス在住で、この秋、友人から借りた新選組のドラマを見ていて山南切腹の時、伊東甲子太郎が近藤に一喝されるシーンに「?」と思ったのをきっかけにネットで調べ始めました。
    特に伊東の鎮魂の歌が気になったのです。
    二人はもしかして新選組で親しかったのでは?北辰一刀流の同門でしかも同じ勤王、意見が合っていたのでは?思ったのです。
    さらに山南が仙台藩の出身と自称したのにはそれなりの訳があったのかな?とも思いました。例えば、隠しきれないおくに訛りです。司馬遼太郎氏が作品の中で薩摩人の言葉についてよくふれられていますが、山南にも東北訛りがあったのでは?と想定しました。となると経歴を詐称するにも東北地方の藩でなくてはならなかったのでは?と想像します。
    これからも妄想に近い想定を武器に調べ続けたいと思います。
    またご意見を聞かせてください。
    ありがとうございました。

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