雲林院弥四郎光成 宮本武蔵と最後に立合った武芸者の真実は

熊本県城南町町民民俗資料館は、二天記に記述されている寛永17年(1640)の熊本藩藩主細川忠利の御前で宮本武蔵と木刀による試合を行った雲林院(氏井)弥四郎光成の身元を紹介する徳川幕府剣術指南役柳生宗矩の書状など初公開の資料も含む「新資料による『天草・島原の乱』」展示会を3月22日まで開催する。(2009.3.2熊本日日新聞)

手元にある「宮本武蔵のすべて」(新人物往来社)には「二天記」からの記述を解説して、氏井弥四郎との御前試合は三度の立会いにおいて、弥四郎は尽く武蔵に技を封じられてしまったとあります。つまり、ほとんど相手にならなかったと書かれてるわけです。しかし、「二天記」は武蔵の死後、100年以上過ぎた安永5年(1776)に、細川家筆頭家老松井家の二天一流兵法師範である豊田景英が著したもの。この書は伝聞の情報源である記述を省いたり、正確性のない資料に新たな記述を加えたりと、歴史的資料としての価値は低いものであるというのが定説です。故に、弥四郎光成との御前試合が、果たして「二天記」どおりのものだったかどうかは甚だ疑わしい限りなわけです。

今回公開された資料の細川忠興・忠利親子の往復書簡(寛永13年)の中で、忠興は「弥四郎兵法存之外見事にて候、柳生弟子ニ是程之終ニ見不申候」と賛美しています。展示会の資料を調査した九州文化財研究所の花岡興史学芸員は「大名クラスの人物が書状で特定の武芸者について言及した例はあまりない。」(2009.3.5読売新聞)とし、弥四郎光成がいかに評価されていたかがわかる資料であるとしています。

雲林院弥四郎光成の父光秀は、子孫である熊本藩士岩尾幾平太が文化4年(1807)に記した由緒書によると、伊勢国安濃郡を拠点として活躍した長野工藤氏の一族であるという。塚原卜伝より鹿島新当流を学び、これを九州の戦国大名大友宗麟の息子義統や、織田信長の息子伊勢神戸信考に新当流を伝えたとあります。また、新当流兵法伝授起請文を共に提出した新陰流の疋田豊五郎景兼にも新当流を伝えていた。

豊五郎景兼は上泉伊勢守信綱の甥であり、信綱が武田信玄の下を去り、諸国を兵法修行した時に同行した高弟の一人である。諸説ありますが、信綱一行が大和柳生にて柳生宗厳と手合わせした時に、豊五郎が信綱に代わって宗厳と三本立会い、一本も取らせなかったと伝わっています。豊五郎景兼は後に疋田新陰流を創始するが、江戸時代柳生新陰流を「柳生流」といい、疋田流を「新陰流」として区別しました。

話を元に戻しますが、その高名な父より新当流を学んだ光成は柳生宗矩の下で新陰流も学んでいます。元和7年(1621)に、宗矩の弟子村田弥三より目録を授かっているのです。ここに当代一流である新当流と新陰流の合流を果たしたのが光成だったわけです。御前試合が行われた当時、武蔵は59歳、光成は60歳であった。公開された資料から雲林院弥四郎光成が、これまで宮本武蔵の強さを強調する引立て役についていたことを、覆さなくてはならなくなったのは確かです。この御前試合に関しての正確な記録が現在まで発見されていないため、やはり「二天記」の記述は二天一流派の創作であるとするのも肯けなくはないわけです。

なお、今回の展示会の資料は書籍にまとめられています。興味のある方はこちらから。(品切れに際しましてはご了承下さい。)

コメント

  1. Yubarimelon より:

    mwainfoさん、takemoviesさん、xml_xslさん、shinさん、nice!をありがとうございます。

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