魚津城の戦い 歴史を見届けた名木で製作された机を発見

富山県魚津市魚津城跡地にある同市大町小学校で城内にあったと伝えられ、昭和25年(1950)の同校舎の火災後に切り倒された「常磐の松」で作られた机が残されていたことが分かった。(2009.3.21中日新聞)

魚津城の戦いは天正10年(1582)に織田信長と上杉景勝の間で行われた合戦であります。謙信亡き後の北陸に侵攻した信長軍は柴田勝家、佐々成政、前田利家、佐久間盛政を大将に最終的に40000の軍勢で魚津城へ進撃。一方守る上杉方は3800で篭城。即座に守将である中条景泰は景勝に救援を求めたが、上野と信濃には織田軍が進駐していたために春日山城は動くことが出来なかった。

開戦から2ヶ月遅れの5月4日に上杉景勝は春日山城を出発しましたが、織田軍が魚津城の二の丸を占拠したため着陣後攻撃することが出来ず。一方、信濃海津城の森長可と上野厩橋城の滝川一益が春日山城に侵攻したことで景勝は5月27日に退陣を余儀なくされた。(森長可は春日山城まで一日の距離までせまっていた。)

結局、6月3日に中条景泰をはじめとする上杉方12人の守将全員が自害し魚津城は落城しました。北陸の支配権を織田信長にとられ、本拠地越後も包囲され窮地に立たされた景勝でしたが、運命は皮肉なもので、魚津城落城の前日6月2日に本能寺の変で信長は明智光秀に討たれていたのです。この急報が柴田勝家に届いたのが6月4日で、織田軍は全軍撤退してしまいます。歴史にifは禁物ですが、勝家に報せが一日早く届いていれば、魚津城守将達の自害もなかったかもしれません。

さて、魚津城も元和の一国一城の令で廃城となり、遺構は何一つ残ってなかっただけに、常盤の松はそれを偲ぶ唯一のものだったことでしょう。姿を机に変えたとはいえ、魚津城ありし日の思い出として後世に伝えてほしいものです。

コメント

  1. Yubarimelon より:

    takemoviesさん、xml_xslさん、shinさん、nice!ありがとうございます。

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