芹沢鴨 茨城県行方市で記念の純米酒を発売

新選組初代筆頭局長の芹沢鴨、同副長助勤の平間重助の出身地とされる行方市芹沢の酒屋が観光土産として、2人にあやかった純米酒「尽忠報國」の発売に乗り出した。(2009.5.4茨城新聞)

2004年の大河ドラマ以降、それまでの悪役一辺倒のイメージがかなり史実に近づいた感のある芹沢鴨であります。京では横暴な振る舞いばかりに目がいってしまいますが、時に細やかで気さくな一面も覗かせていたということです。あまり光のあたらない文久三年(1861)浪士組参加以前の芹沢についても、近年の研究でその足取はほぼ解明されています。

芹沢鴨、本名を下村嗣次。本名と書くが、その出自は現在の茨城県玉造町芹沢で続く芹沢家の出であります。芹沢家の歴史は古く、関が原の合戦で東軍として参陣し、その功績により幕臣に取り立てられました。三代目の時に浪人となるが、分家が水戸藩に取り立てられ、後に本家も同藩の士分格として取り立てられた。(鴨の葬儀に参列した芹沢又衛門と助次郎はこの分家の出身である。)芹沢家は医術に優れていたようで、秘薬の「筋渡し」(その名前から骨接ぎ薬の湿布?)は平成の現在も処方されているということです。

芹沢家は兄の兵部が継ぎ、鴨は養子として下村家に入った。下村家の歴史も古く、小倉小笠原藩家臣として島原の乱で功績を残し、現在の北茨城市中郷の地を拝領。その後、水戸藩家老中山家の目付け格として代々続いてきた。鴨が養子に入った当時、下村家は神官職についていたため、下村嗣次として水戸藩資料に松井村神官、手綱村元神職として名前が記されています。(松井村も手綱村も中山家の領地。)鴨が浪士組に参加する際、兵部がその目付け役として代々芹沢家の番頭格である平間家から重助を同行させたわけです。

芹沢鴨は天狗党出身であるというが、元治元年(1864)三月筑波山で挙兵した武田耕雲斎、藤田小四郎らの天狗党とは、思想的な同志ではあるが別のものであります。 水戸藩では徳川斉昭公が行った天保の改革に対して、下級藩士が大いに賛同し藩の改革派として要職を占めます。それに対し、門閥派である上級藩士達は彼らを成り上がり者として「天狗」と呼んだのです。芹沢の言う天狗党とはこの「天狗」に由来するものであります。本来、地元にある藩校の玉造郷校を拠点に活動していたので玉造組という言い方の方が判りやすいと思われます。

この玉造組も、当時の井伊大老による勅許なしでの諸外国との開国調印に攘夷の気勢を上げます。下村嗣次も(時代は逆となるが、京都と同様に)攘夷を名目として名主や旅籠から高額な金策を強行。町役人が出動する騒ぎとなり、この時に例の鉄扇で取締りに来た伊能権ノ丞らを打ちのめしてしまったのです。嗣次は逃亡し父外記宅に潜伏中、捕縛され水戸赤沼獄に入れられた。獄中での生活が1年10ヶ月程経った文久ニ年(1862)に改革派「天狗」が政権与党となったこともあり、藩主徳川慶篤は安政の大獄で入獄した者全てに特赦を施します。死刑を待つ身であった嗣次も釈放され、この時に名を芹沢鴨と改めたのです。彼が改名した理由ははっきりしませんが、下村家が嗣次が行方不明になっていた事と玉造組に関与していた事もあり、文久元年に死亡したとして墓碑にも名を刻んでしまっていたのを聞き及んでいたからではないでしょうか。

浪士組に参加した芹沢は、「下村嗣次は死んだ。舞台を京に移して再出発だ。」という熱い思いがあったに違いありません。しかし、わずか半年あまりの期間で彼は鬼籍に入ってしまいます。それでも、新選組筆頭局長としての活動は、これまでの人生の中では絶頂であったかもしれません。

目付役として浪士組に参加した平間重助は芹沢暗殺当夜、普段からあまり飲まない体質が効をそうして逃亡することが出来たようです。足取は定かではありませんが、鴨の最後を報告するため芹沢村に戻っていたようです。そして、明治7年に51歳で息を引き取ったとされています。

記事中の行方市芹沢では今も芹沢と平間を新選組を創った男達として尊敬しています。記念のお酒が出来たというニュースに、酒好きであった天国の芹沢鴨も喜んでいることでありましょう。

参考にしたサイト:新選組を創った男の町

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