河井継之助 最期の地只見町の松を植樹

新潟県長岡市にある河井継之助記念館に、最期の地となった会津藩領塩沢村(現福島県只見町)の松を2本植樹した。(2009.5.21福島民報)

河井継之助は慶応4年(1868)の北越戦争における長岡城奪還奇襲戦の最中に左足に流れ弾を受けて負傷。この傷がもとで破傷風を起こしてしまった。新政府軍に掌握された長岡をあとに会津に落ちるが、8月16日(1868.10.1)に死亡した。

継之助の葬儀は藩主松平容保公も出席し若松城下の建福寺で行われたが、遺骨は新政府軍が会津浸入をした際にあばかれる事を憂い、従僕の松蔵が建福寺の裏山の松の木の下に戦後の混乱が収束するまで埋めておいたということです。(実際、新政府軍は継之助の墓をあばいたが、中身が砂であったことから継之助生存が兵士達に伝聞し、恐怖に陥れたという。)

現在の福島県会津若松市建福寺の裏手には小田山という山が地図にあるのですが、おそらく松蔵が遺骨を隠すために埋めた裏山というのはここのことだと思います。最期の地であった只見村から2本の松が今回植樹されたのですから、いずれは小田山の松も植樹されれば松好きの継之助も喜ぶのでは、と思う私でした。

補:小田山は慶応4年8月25日から新政府軍がアームストロング砲を運び上げて、若松城を砲撃した場所でもあります。仮に松蔵が小田山に継之助の遺骨を埋めたのだとしたら、本当に運の良かったことだとしか言えません。

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