関ヶ原 慶長5年(1600)当時の集落調査を開始 

岐阜県関ヶ原町の古戦場の当時の集落や田畑、人口構成などの調査事業を地元の自治体が開始する。国内に古戦場は数あるが、集落調査を行うのは極めて珍しいという。(2009.5.25中日新聞)

関ヶ原の合戦の東西両軍布陣図を見ると、戦場となった場所は北国街道、中山道、伊勢街道が交差する要衝であったことが判ります。街道が交わる場所=人の往来が多い、すなわち宿場町が発展すると考えがちであります。確かにここには中山道の関ヶ原宿という宿場が置かれていましたが、それはこの天下分け目の戦いが終わった後、徳川幕府が全国の街道を整備し、宿場を設定してからのことです。

しかし、記事中にあるように合戦の行われた当時、宿場をはじめ若干の人家が存在していて2000人くらいの人口があったとしています。その頃の規模で2000人の集落というのは決して小さくはなかったはずです。となれば、両軍合わせて約17万人が集結した戦場の地元民の被害が甚大でなかったはずがないことも想像出来ます。

専門家が今後調査を進めていけば、新たな事実も発見されるかもしれません。ですが、現段階で何か戦場となった関ヶ原に居住していた人達の様子を簡単に知る手がかりはないかを捜してみました。

当時の記録を残す方法としては日記などの文献か絵画による合戦図を描くことです。関ヶ原合戦図屏風というのは、大規模な戦いだっただけに数点残されています。ですが、大阪夏の陣合戦図屏風のように戦火に巻き込まれる人々が書き込まれてる画はないようです。確かに、関ヶ原に陣を張ってから両軍が戦闘に入るのにはかなりの時間がたってからだったので近隣の住民は避難していたでありましょう。それでも、大正時代の絵師藤井介石の描いた関ヶ原合戦図屏風には地元出身であっただけに、数多くの文献を研究し現地を調査しただけあって地理的にも正確であるという評価を受けています。その画の中で集落が描かれている部分もありました。あくまで想像で描いたものでしょうが、合戦時の雰囲気が伝わるリアルさがあります。

今回の調査の結果によっては、古戦場を新たな視点で掘り下げる動きが他の場所でも行われるかもしれません。楽しみであります。

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『関ヶ原合戦図屏風右隻2扇』

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『関ヶ原合戦図屏風右隻5扇』

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