豊臣秀吉 現在も不明のままであるその死因に新説を発表

慶長3年8月18日(1598.9.18)に62歳で死亡した豊臣秀吉の死因を、兵庫県姫路市の脳神経外科医で作家の若林利光氏が脚気が原因であったとする新説を近く発表する。晩年の秀吉を書いたイエズス会宣教師の手紙から症状を調べて判断したという。秀吉の死因については現在も不明とされている。(2009.5.29神戸新聞)

秀吉が没した日、海を越えた朝鮮半島では慶長の役に出征した14万の日本軍が東岸の蔚山、南岸の順天と梁山に城を築き、明と朝鮮の連合軍を迎え撃とうとしていた。同年9月より連合軍は加藤清正が主将の蔚山、小西行長が守る順天、そして島津義弘の泗川(順天の東)へ攻勢に出たが堅固な城を攻めきれずに敗退。特に泗川の戦いでは守る島津軍7千が、圧倒的な寄せ手(諸説あるが3万7千~20万)であるにもかかわらず、これを撃破した伝説的な戦いとして歴史に記録されている。

しかし、10月に秀吉の死を伏せたまま全軍撤退の命が出され、出征大名達は連合軍の海上封鎖を突破し帰国の途についた。

五大老をはじめとする閣僚達にとって、時の天下人の死以上に海外に出征した大名達の帰国の方が重大事であったと思われます。このため、秀吉の死は形の上で秘匿とされただけでなく、通夜も葬儀も行われることはなかったのです。

一方、徳川家康は秀吉の死後早くも政権内の多数派工作をあからさまに行い、前田利家と石田三成と対立。三成も帰国した加藤清正、福島正則らから出征時の処遇をめぐり命を狙われることになり、関ヶ原の戦いの根幹である豊臣政権の武断派大名と文治派大名の対立(尾張と近江出身の大名の対立とも)という構図を造り上げることになる。

歴史的にみて秀吉の死は新たなる戦乱の幕開けの切欠にすぎず、戦国大名達の頭の中には天下の趨勢が今後どうなるのかばかりだったでありましょう。よって、秀吉の死因も記録に残されることなく歴史の闇に埋もれることになったのではないかと想像できます。

当時の手紙や日記などから晩年の秀吉を描写する記録も残っていて、そこから病状を推測するなどはされてきました。精神混乱や失禁といった内容から、これまでは脳梅毒が死因であったする説が有力視されてきたようです。しかし、最近放送されたTVの歴史バラエティ番組では、病気説よりも暗殺説の方が視聴者から支持を得るなど、死因の本当の原因を知りたい、あるいは歴史の白黒をはっきりさせたいという風潮が世間では高まっているとの感じを番組から受けました。

記事によると、今回の脚気説のソースとなった資料には特に目新しいものはないような気がします。既出の記録から医学者として病状を判断したということでしょう。今後、新資料の発見でもない限り、この脚気が死因であったという説が定着する可能性もあります。しかし、歴史の真実がわからないままというのは、一方ではいろいろ推理が出来る楽しみも残されているということです。

歴史の全てに白黒つけることも大切ですが、灰色の部分があるからこそ歴史が好きだ、楽しめるという人も多いと思います。上記のような歴史バラエティ番組が人気であるのも、そうした理由があるからではないでしょうか。

決着!歴史ミステリー・テレビ東京HP (天下人・豊臣秀吉の死因は、病死か? 暗殺か? 4月16日放送分)

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*文章の転載は厳禁とします。

コメント

  1. わかまろ より:

    なるほどぉ・・いろんな説があるんですね。
    てっきり胃がんで死んだと思っていました。

  2. Yubarimelon より:

    わかまろさん、コメントありがとうございます。
    医学者でもある杉浦守邦氏の著書「武将の死因」の中では秀吉を尿毒症であったとしています。実際記録に残っている晩年の様子からだけで病状を正しく推測するというのは、実に難しいことだと私は考えます。
    私達が日常頭が痛いとなれば、まぁ頭痛薬でも飲んでおけば大丈夫だろうと思いがちです。しかし、これが専門家の診断になると、とんでもない病気だったりすることもあるわけです。
    文献に残された秀吉の病状も専門的な見識から判断されたものばかりではないはずなので、いろいろな説が出てくるのは当然かもしれませんね。

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