邪馬台国論争に終止符は打たれるのか? 箸墓古墳墳墓の早期発掘調査を望む

邪馬台国畿内説に新たな動きを作り出す切欠となったのが、国立奈良文化研究所光谷拓実氏の年輪年代測定法の研究の成果であったことは前回書いたとおりです。そして、弥生時代の年代修正(正確にいうと弥生時代中期の後半)という考古学会にとっては極めて重大な事件により、邪馬台国論争は思わぬ展開を見せることとなりました。

年輪年代法の有用性は池上曽根遺跡の築造期の測定で実証してみせたわけですが、この結果、近畿地方の弥生時代の遺跡の年代を修正するという動きが出てくることになりました。そこで前回書いた箸墓古墳も同様に築造期を3世紀初頭と修正して発表されたわけです。この遺跡は日本で最古級の前方後円墳であり、纒向古墳群の中にあります。古墳という大型の墳墓が造られる、いわゆる古墳時代はそれまで3世紀後半から始まったとされていました。しかし、この修正により時間を二三十年ほど繰り上げて、3世紀はじめから始まったと考えられるようになったのです。

邪馬台国論争の思わぬ展開というのは、卑弥呼の死亡時期248年頃がこの古墳時代と重なることになってしまったことです。学生時代の歴史の教科書では邪馬台国と古墳時代は完全に別パートとして扱われていたと記憶しています。そう考えると卑弥呼の墓は古墳なのではないか?という見方も現実味を帯びてくるわけです。ここで学者達は箸墓古墳が卑弥呼の墓ではないかという見方を大いに強めるようになったわけです。実際、「魏志倭人伝」に書かれている卑弥呼の墓の大きさ「径百余歩」(約150m)は箸墓古墳の後円部の直径とほぼ一致するのです。さらに、纒向古墳群は紀元180年頃突如現われ340年頃に一斉に姿を消してしまったとされ、これは邪馬台国の歴史から大和朝廷が始まる時期と見事に重なることとなったのです。

何故、専門家達が箸墓古墳を卑弥呼の墓ではないかと見るようになったかといいますと、古墳を管理している宮内庁はここの埋葬者を倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)であると発表しているからです。この女性は10代崇神天皇のそばで鬼道を使った巫女であり、数々の予言により崇神天皇を補佐したと「日本書記」に記されています。卑弥呼も鬼道を使うシャーマンであったわけです。このように神話的な記述の存在から、はるか以前より箸墓古墳の埋葬者倭迹迹日百襲媛命と卑弥呼が同一人物ではないかという見方が存在していたわけです。しかし、年輪年代法の確立こそ、この推測が現実のもではないかという見方へ大きく変えたのは間違いありません。

ここまで書いてくると、先日の記事で発表された箸墓古墳の周壕で発掘された土器から科学的な測定をしたという内容には納得はいくものの、それほど驚きを持っては読めないというのが本音です。上記したように箸墓古墳は宮内庁が管理している陵墓参考地であるため、墳墓内の発掘はおろか立ち入りさえ禁止されているのです。しかし、桃山陵墓の例もあるように、これだけながく邪馬台国論争が日本で続いているのですから、いつまでも沈黙しているわけにはいかないでしょう。近い将来必ず、発掘調査の許可が下りるはずです。

仮に発掘が行われ、「魏志倭人伝」に記されている魏王より卑弥呼に送られた「親魏倭王」の金印や多くの鏡が埋葬品であったなら、邪馬台国論争は論争ではなくなり新しい歴史として記されていくことになるはずです。結果はともかく、早く箸墓古墳の調査が行われることを期待しています。

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コメント

  1. sig より:

    こんばんは。
    これは最近関心を呼んだニュースでしたね。
    ぜひ調査して結果を知りたいものです。

  2. Yubarimelon より:

    コメントありがとうございます。
    私も早く真相を知りたいと思っています。ちなみに考古学者の9割は邪馬台国畿内説を支持しているそうなんですが、どうなることでしょう。

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