新納武蔵守忠元 没後400年を顕彰する実行委員会が発足

戦国時代薩摩島津家で大口地頭を務めた新納(にいろ)忠元(1526-1610)の没後400年を顕彰する実行委員会が鹿児島県伊佐市で発足した。新納忠元は島津貴久・義久の二代に仕えた。陣中においては火縄の明かりで古今和歌集を読むほどに和歌や連歌を愛好したという。また、秀吉の九州征伐の際には最期まで徹底抗戦を主張し続けた猛将でもあった。(2009.6.3南日本新聞)

薩摩島津家では戦国期に全九州を平定すべく多くの兵士を集めていたが、秀吉の九州征伐の結果ニ州一郡に押込められる事となった。にもかかわらず、全ての武士をそのまま徴用し続けたため、江戸時代他藩では人口に対して武士の割合は約0.6%であったが、薩摩藩では30%近い割合を占めていた。また、独自の地方組織として外城制を定めていた。これは当主である島津氏の居城(鶴丸城)を内城とし、家臣達を城下には置かず領内を区分した外城の領主や地頭の城砦の下に配置したのである。彼らは平時には農業を営み有事の際には戦闘員となる半農半士の集団であった。(これは関ヶ原の役以後、会津120万石から米沢30万石に減封された上杉家の原方衆と似ているところがあります。) この外城制度は元和の一国一城の令により廃止され、外城に住んでいた武士達は郷士と呼ばれるようになった。

新納忠元は大口城(現鹿児島県伊佐市)であった大口外城の地頭職を務めていました。

新納忠元は「鬼武蔵」と異名を取るほどの武将でしたが、愛好した和歌に関するエピソードも良く知られています。

天正9年(1581)に水俣城を忠元が攻めた際、忠元が城内に「秋風に水俣落つる木ノ葉哉」と歌を詠んで射掛けたところ、守将である犬童頼安は「寄せては沈む月の浦波」と射返したということです。

武将であり文化人であった細川幽斎から添削を受けた和歌に以下のものがあります。

晴れ曇る光は空にさだまらで夕日をわたるむら時雨かな

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