習志野捕虜収容所 105年目にして初の日露合同慰霊祭 

千葉県船橋市で3日、日露戦争ロシア兵死没者慰霊祭が営まれ、ミハイル・ベールイ駐日ロシア大使をはじめ、市民、自治体代表、自衛官らが出席し戦没者の冥福を祈った。(2009.6.4毎日jp)

明治38年(1905)3月の奉天会戦で捕虜となったロシア兵20773名のうち内地収容所に収容しきれなかった12000名が日本各地の収容所に分配されることとなり、同年3月下旬習志野に第一陣の2020名の捕虜が到着している。当時の新聞によると、捕虜が習志野に着いた時はまだ建物が完成していなかったため、テントでの生活であったという。9月下旬に完成した当収容所には各地から移送された捕虜の入所もあり、総勢15005名の入所があった。

明治38年9月5日に締結されたポーツマス講和条約の中で、捕虜の交換条約も結ばれた。習志野では同年10月3日より捕虜の母国帰還が始まり、最期まで残留していたロシア人が出発したのは翌年1月であったという。

習志野のロシア兵捕虜収容所はその後、習志野陸軍廠舎として使用されていたようです。そのため、最近の調査までその所在さえ不明であったということです。一方、第一次世界大戦における青島のドイツ兵捕虜を収容した習志野捕虜収容所は、これとは別に新しく建設されたものであります。(このドイツ兵捕虜収容所の所長を務めていたのは西郷隆盛の嫡子西郷寅太郎大佐です。所長在職中の1919年にインフルエンザにより亡くなっている。)

記事中にある習志野霊園には日本、ドイツ、ロシアの戦没者慰霊碑が並んで建てられています。敗戦後荒れ放題であった、当墓地にドイツ、ロシア(当時はソ連)兵士の戦没者慰霊碑を建立するように大使館と船橋市に交渉したのは、習志野陸軍学校の教官であった石崎申之氏です。「敵にはあれど、亡き骸を鄭重に崇敬するのが大和魂である。」という思いからであったということです。そして、昭和30年にドイツ人戦没者の碑が完成し、3国の碑がそろったのは昭和46年になってからであった。

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