田原坂・吉次峠 西南戦争の古戦場を国史跡へ 

熊本県玉東・植木町にまたがる西南戦争の遺跡群を国史跡指定に向けて取り組むことが決定された。7月末には協議会が設立され、調査や保存、活用法を検討する方針だという。(2009.6.6YomiuriOnline)

明治十年(1877年)3月1日~31日、田原坂・吉次峠方面で西南戦争最大の激戦が行われた。堅牢な熊本城を攻めあぐねた薩摩軍は、南下してくる官軍を防ぎ止めるために最低限の包囲の兵士だけを残し、本隊は北進をすることに作戦を変更した。

PC050030.JPG

『菊池川に架かる高瀬大橋から稲荷山を望む。勇猛果敢に戦った桐野利秋であったが、部隊数が足りず、一足先に征伐軍に稲荷山を押えられてしまった』

両軍が本格的に激突したのが2月20日から始まった高瀬口での戦いである。薩軍は官軍を農村から徴兵した百姓兵と侮っていたが、ここにきて簡単に勝てないことを悟ることになる。この戦闘で勝負を決しようとしていた薩軍は西南戦争中もっとも果敢に戦ったが、幾つかの要因が重なり敗退する結果に終わった。更に、高瀬北にある小さな稲荷山の帰趨が、大局的に西南戦争の勝敗を大きく左右する事になった。勝利した官軍の本隊は退却した薩軍が陣を敷く田原坂方面に進出させ、支隊を吉次峠にと進出させた。

PC050032.JPG

『明治十年ニ月ニ十五日から三度にわたり、菊池川を挟んで薩摩軍と征伐軍が戦った古戦場』

PC050034.JPG

『ニ月ニ十七日、第三次高瀬会戦にて、西郷隆盛の末弟小兵衛は戦死した。繁根木川の土手に一つだけお墓が建てられています。道路が狭く、判り難い場所にありますが、近所の方に案内していただき、手を合わせることが出来ました』

田原坂の地は坂道が険しく、くねくねと曲がりくねっている。道の両側は断崖になっていて、樹木が覆い昼でも薄暗かったという。ここでの戦闘の激しさは古今類をみない。現在でもこの古戦場の土を掘り返すと、当時の弾丸が出てくるというのだから。その一例として両軍の対峙距離は5、6mしかなかったという。これは相手の顔が判別できるどころか、会話さえ可能である距離だ。補給を確保しなかった薩軍の兵士が戦闘が小康状態の時に官軍兵士に呼びかけて食料を投げてもらったという話も残っている。

国内の内戦史上、最大の激戦地ともいえる田原坂の史跡指定は、歴史を後世に伝えるためにも有意義なことだと思われます。記事にもあるように、将来野外博物館が出来ればぜひ訪れてみたいと思います。

*写真とコメントを追加しました。(2011.12.12)

error: Content is protected !!