七曲砲台 江戸湾警備駐留中に亡くなった会津藩士とその家族を慰霊する

千葉県富津市で房総半島会津藩士顕彰会が7日、第3回会津藩士慰霊祭を主催した。地元の富津市市長、会津若松市副市長、会津弔霊義会監事、在京会津会副会長、顕彰会員ら40人が参加し、故国より離れた遠隔地で亡くなった藩士とその家族の霊を慰めた。(2009.6.8福島民友ニュース)

外国の船舶が江戸湾に開国・通商を求めて頻繁に姿を現し始めた江戸後期、幕府は諸藩に海岸警備の命を発した。会津藩は文化6年(1809)に樺太出兵を終えたばかりであったが、翌文化7年に江戸湾西側(現神奈川県三浦半島、人手と物資調達の必要性から当地相州3万石が与えられ、城ヶ島に砲台、三崎に陣屋を置いた。)の警備を命ぜられた。遠方への長期に渡る派兵であったので藩士の家族も同伴が許可されていた。この江戸湾西側警備は10年間、文政3年(1820)まで行われた。

その後、弘化4年(1847)には江戸湾東側(現千葉県富津市)の警備をペリーが来航した嘉永6年(1853)まで行い、更に場所を品川第2砲台台場に移し、結局安政6年(1859)まで会津藩は海岸警備の命を全うすることとなる。

江戸湾東側の海岸警備を命ぜられた当初会津藩8代藩主松平容敬は老中阿部正弘に対して、当藩が外様藩と同様に外国と戦えというのは筋違いである。御府内の警備こそ筋であると海岸警備を回避しようとしたが許可されず、「武門の幸せ」としてこれを拝命した。そして、嘉永3年海岸線に七曲砲台を築き、上総富津に陣屋を設けて警備に当たった。この駐留時の規模は警備兵1397人、大小銃474門、新造船19隻という非常に大掛かりなものであった。(嘉永元年容敬公巡回時の記録より)

七曲砲台は現在の千葉県富津市磯根崎の南に立つ東京湾観音の北西約1km先にある海岸線高台のひらけた展望台のような場所にあったということです。後に旧陸軍が監視所を設置したということですが、現在ではその遺構は見当たらないようです。この砲台の南側には佐貫藩が設置した大坪山砲台(東京湾観音と同じ場所)と幕府が大坪山烽火台を設置し、外国船に備えていた。

記事中にある富津で警備につき、当地で亡くなった藩士とその家族のお墓同様に、江戸湾東側の警備についた藩士とその家族のお墓も、三浦半島会津藩士顕彰会の方々の尽力で現在も大切に保存されています。それにしても、藩命とはいえ故郷から遠く離れた地への長期出兵はさぞ大変だったことでしょう。単身赴任ではなく、家族同伴が許可されていたというのはせめてもの救いだったかもしれません。今も昔も、家族の癒しこそ一番の励みであることに変わりはなかったはずですから。

コメント

  1. fuzzy より:

    幕末期の会津藩は健気に日本の為に尽くしましたね。朝敵になるなど不憫です。記事とても楽しみに読ませていただいています。他の記事も好きな題材ばかりで、NICEです。

  2. Yubarimelon より:

    fuzzyさん、コメントありがとうございます。
    私もblogを書きながら勉強しているので、読んで下さる方と一緒に楽しみが共有できたら嬉しいですね。ありがとうございます。

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