吉田松陰と金子重輔 松蔭没後150年を偲び萩市市民団が姉妹都市下田市で植樹

安政6年10月27日(1859.11.21)に没した吉田松陰を偲び山口県萩市訪問団が21日、姉妹都市下田市の市代表らと共に同市柿崎の松蔭像に萩市市花ヤブツバキを植樹し、松蔭の遺徳を称え両市の友好関係の発展を祈願した。(2009.6.22静岡新聞)

昭和50年10月28日に山口県萩市と静岡県下田市は姉妹都市の提携を結んだ。その縁となったのが、嘉永7年3月27日(1854.4.24)長州藩の吉田松陰と金子重輔が浦賀沖に停泊していた米国のペリー提督率いる東インド艦隊所属軍艦ポーハタン号に乗り込み密航を企て失敗した歴史によるということだ。

静岡県下田市柿崎にある松蔭の銅像には、嘉永6年に江戸遊学の際に知り合った長州藩足軽金子重輔が付き従っています。西洋列強に日本が負けないためには、まず西洋の知識を吸収しなければという松蔭の考えを支持し弟子になったそうです。密航事件で共に自主した後、重輔は萩の岩倉獄に送られ、ここで25年の生涯を終えています。

高杉晋作や久坂玄瑞ら松下村塾の弟子は数多く知られていますが、この金子重輔が松蔭最初の弟子であることは間違いありません。故郷の萩市にある松蔭の銅像も、この米国へ密航しようという決意を持った松蔭を現していて、その脇に同様に重輔が従っています。(下田の銅像も萩のも同じ密航直前の場面を描いているものですが、海の彼方に日本の未来を見つめる松蔭とその横にひざまづき師と命を共にする覚悟の重輔という奇しくも同じ構図のものであります。)安政2年に重輔の獄死を知った松蔭は深く嘆き悲しんだそうです。

志半ばで倒れた金子重輔ですが、師を見上げる銅像の表情からは、現在明治維新の精神的支柱とされるに至った松陰と行動を共に出来たことを後悔しているようには思えません。この偉大な人物のそばに付き従えたことを、おそらく地下でも誇りに思っていることでありましょう。

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