最上義光 古文書の中から晩年の印判状を発見

初代山形藩藩主最上義光が出したと思われる書状を2点発見したと、山形大人文学部の松尾剛次教授が今月26日発表した。鶴岡市立図書館に寄贈されている真田玉蔵坊文書を整理している途中で古文書の中から発見されたものだという。いずれも出羽少将名義の自筆ではなく右筆に書かせたもので、慶長17年(1612)6月4日付けの羽黒修験の代表者や肝煎への年貢率や仕事を認める内容であり、もう1点に関しては詳しい内容は判っていない。(2009.6.27山形新聞)

書状に「出羽少将」という名義があるのは、慶長16年に義光が左近衛少将と出羽守を叙位・任官しているからである。この年、徳川家康の駿府城新築祝いのために上府した後から体調を崩したといわれている。また、それまでに残されている書状の多くが右筆を使わずに本人自筆のものであることから、新発見の書状においても義光の体調がすでに良くなかったことが伺える。

おそらく、残された人生の内に山形藩の将来を確固たるものにする事が義光の心の多くを占めていたに違いない。翌年の慶長18年には重い体に鞭を打ち、江戸の将軍秀忠、駿府の家康に謁見し最上家の行く末を願っている。

現在も山形の代表的な武将といえば、最上義光をおいて他にはいません。鶴岡市霞城公園にある義光の騎馬姿、それは県民の尊崇を一身に集めていることがうかがえる見事な銅像であります。

実質、義光一人で幕を閉じてしまった最上山形藩でありますが、これほどに親しまれているのは、やはり義光の武将としての器量の大きさによるところが大きいと思えます。それは現在に至る山形市や酒田市の基礎を整備したことや、神社仏閣や巡礼者の保護に努めたこと等、いくつも挙げられます。今も多くの観光客が訪れる山寺立石寺や羽黒山の多くの伽藍は義光の時代に建てられたものです。さらに義光の治世にはほとんど一揆は起こらなかったというほど、領民に対しても善政を施していたのです。まさしく一代の英雄であったといえるでしょう。

余談にはなりますが、ドラマ「水戸黄門」に登場する水戸藩国家老山野辺兵庫は義光の四男義忠の嫡男義堅であります。義光の死後、元和8年(1622)に最上家は幕府により改易を受けてしまいます。義忠はその際備前国に身柄をあずけられましたが、徳川家光により叔父であり初代水戸藩藩主徳川頼房の下に移されました。後に罪を許され、1万石を与えられ水戸藩の家老となり水戸光圀の教育係りも務めたわけです。その息子の義堅が光圀に仕えたのはいうまでもありません。

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