明治の兄弟-山川家の人々 戊辰の遺恨と和解がテーマの演劇を会津若松の劇団が鹿児島で今秋上演

福島県会津若松市のアマチュア劇団「ぴーひゃらら」が上演する「明治の兄弟-山川家の人々」は会津藩出身の山川浩陸軍大将の妹さきコト捨松と薩摩藩出身の陸軍卿大山巌(弥助)の縁談を軸に、戊辰戦争での互いの憎しみを超えた和解をテーマとした物語である。2007年に初演され、福島県教委の「ふくしまの歴史と文化の再発見 演劇祭」にも選出されたその作品が、今年10月13日に鹿児島県鹿児島市民会館で上演されることが決定した。

劇団関係者の熱意が鹿児島の人々に受け入れられた形の今回の上演だけに、劇団員たちの稽古にも熱が入っているという。団長で西郷従道役の近藤直宣さんは「まだ実感がないが、夢のよう。生涯に一度だと思って鹿児島の人たちに最高の舞台を見せたい。」と話している。そして、今月27日にスタッフが打合せのため鹿児島入りし、西郷隆盛の墓がある南州墓地を参拝した。弟である従道と従兄弟である巌は西南戦争で最愛の兄に弓を引くこととなり、その後二度と故国の地を踏むことはなかった。二人の想いと共に、スタッフは西郷さんの墓前で上演にかける決意を新たにしたという。(ソース記事:2009.6.23福島民友新聞、2009.6.28南日本新聞)

薩摩の大山巌と会津の山川捨松の結婚には、どこか運命的なものを感じるのは私だけではないはずです。会津戦争の際、8才だったさきは若松城に入城し連日撃ち込まれる官軍の砲弾を濡れ布団を被せて炸裂するのを防ぐ作業を行います。兄浩の妻がこの時の怪我がもとで死亡し、自身も大怪我を負ってしまいます。その砲弾を撃ち込んでいたのが、薩摩藩砲兵隊隊長の大山弥助コト巌であったのです。

明治4年アメリカ視察から帰国した黒田清隆の発案により、男女の若者を向こう10年官費留学させる計画にさきは応募し、これに選出されました。当時、年端も行かない娘を10年も海外に留学させるというのは非常識であった時代であり、女子の応募はほとんどなかったということです。(選ばれた娘の一人に、後に津田塾大学を設立する津田梅子がいます。)母親が「娘を一度捨てたと思い帰国を待つ(松)のみ」という思いから捨松と改名させたのはこの時であります。

一方大山も西南戦争以降、山形有朋と並ぶ陸軍の重鎮という立場にありましたが、先の妻に先立たれていました。スイス留学の経験のある大山ではありましたが、当時の外交の主な舞台は夫人同伴の夜会や舞踏会であったため、周りからも再婚を嘱望されていたわけです。そこで語学に堪能で海外での生活経験も豊富な捨松が後妻として候補となったのは、当然の成行きであったと言えましょう。

先妻の父吉井友実のセッティングで二人は初めて対面します。この初対面で大山は捨松に一目ぼれしてしまったそうです。大山は吉井を通して捨松の家族に結婚の承諾をもらいにいくわけですが、山川家では断固反対なのは言うまでもありません。兄であり父親代わりの浩にしてみれば、若松城に砲弾を撃ち込み自分の妻も殺した張本人に妹を嫁に出すなど言語道断なわけです。大山もあきらめません、従兄弟の西郷従道に頼み連日連夜山川の説得に当たらせました。結局、浩の「山川家は賊軍の家柄である。」という言葉に対して従道の「自分も兄を討った逆賊です。」という返事から気持ちが少しずつ軟化し、最後には捨松本人に任せるとなったのです。

さて、ここまでまとまればと安心した大山でしょうが、当の捨松は如何にも当時の日本女性の枠に当てはまらない返答で「閣下のお人柄を知らないうちはお返事もできません。」とデートを願ったのです。この二人のデートのエピソードはとても面白く、大山の薩摩弁丸出しの話方が捨松にはさっぱり通じず会話にならない。ところが、英語で話をしてみたら二人は互いを理解し合ってしまったというのです。英語での会話から、大山の紳士の素養と心の広さを知った捨松は結婚を決意したそうです。

現在も生き続けていると云われる戊辰戦争での敵国同士に生じたわだかまり。しかし、明治の時代にすでに互いを理解しあい、愛しあった人達もいたのです。私のような第三者が言うのもなんですが、平成の今のわだかまりとは相手を理解する事、あるいは知ろうとする事自体を否定しているだけのものなのではないでしょうか。こうも言えるかもしれません、自分だけが会薩長の人と和解してしまったら周りからどういう目で見られるか、それが一番怖いのだと。歴史を後世に伝えるという意味での「わだかまり」であるなら私は肯定しますが、憎悪そのものの考え方に対しては首をひねるしかありません。

今秋鹿児島で上演を行う会津の劇団の人達が、実は一番自分達の熱意を感じて欲しいと思っているのは今も会津でわだかまりを抱えている人達に対してではないでしょうか。もちろん、鹿児島の人達にも会津人の心を伝えたいという想いで一杯であることは言うまでもありません。私自身もまだこの劇を観たことはないので、何かの機会にはぜひと思っています。そして、上演の大成功と会津と薩摩の交流が一層活発になることを祈っています。

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