筒井順慶 日和見主義者のイメージを晴らすべく冊子を発行

天正10年(1582)の山崎の合戦にて、明智光秀と羽柴秀吉の両軍から援兵の誘いを受けていた大和国守護職筒井順慶がその去就を巡り生まれた「洞ヶ峠を決め込む」。この故事のため、日和見主義のイメージのある順慶の真実を知ってもうらおうと、菩提寺である奈良市小川町伝香寺の住職西山明彦氏が冊子を作り参拝者に配布する。(2009.7.4奈良新聞)

洞ヶ峠は現在の京都府八幡南山と大阪府長尾峠町の境にある。ここに光秀と秀吉双方から味方に付くよう催促された順慶がどちらに付くか迷ったため動かずにいたところ、光秀が峠まで説得に行ったことから故事が生まれたという。しかし、実際は最初に援兵の依頼をした光秀に対して順慶は少数の軍勢を派遣したものの、自身は居城である大和郡山から動かずに中立姿勢を保っていた。山崎の合戦が始まるや、秘密裏に秀吉側に付き篭城態勢に入ったというのが史実のようだ。

現在史跡として保存されている大和郡山城は筒井氏の後に入った豊臣秀長が大規模改修したものであります。以前野面積みによる石垣が見事な城として紹介したことがある通り、郡山地方は石材の産出が少なかったため、墓石や地蔵などが使用されたようです。

記事にある洞ヶ峠の故事が江戸時代の史観により作られたとする説に関しては、順慶の死後に伊賀上野に転封した筒井定次が慶長13年(1608)に突如江戸幕府より改易を受け、後に筒井家が家名断絶した事に関係があるかもしれません。改易の理由としては領国の仕置き不行きなどいろいろ挙げられるようですが、最近の研究から豊臣恩顧の大名として筒井氏が大阪に近い要地伊賀国にいたのでは、徳川にとって甚だ不都合であったというのが一番の理由のようです。つまり、改易理由を勝手にでっち上げてしまった徳川家のイメージダウンを避けるため、逆に順慶を日和見主義者に仕立てることで遠まわしに筒井氏のイメージダウンを狙った故事を生み出し、流布させたというのが真相ではないでしょうか。

当時徳川家にとって、大阪城には豊臣秀頼と淀殿も健在で関ヶ原の役では東軍であった豊臣恩顧の大名も秀頼に忠誠を尽くしていたため、家康にしてみれば気が気でなかった情勢でありましょう。大阪に近い位置にいる筒井氏を滅ぼしておくことは、徳川家にとってメリット以外の何ものでもなかったはずです。

ですが、ここまで書いてしまうと洞ヶ峠の故事が全くの出鱈目となってしまいそうです。織田信長の家臣であった順慶が、主人亡き後の天下の趨勢を見極めるのに多少の時間を有した事も間違いはないでしょう。本能寺の変が天正10年の6月2日で、そのわずか13日後に山崎の合戦が起きています。大和の順慶が情報を整理するための時間は、それよりももっと少なかったはずです。これは順慶だけに限らず、信長に臣従していた他の戦国大名にも当てはまると思われます。たまたま、山崎の地に近い大和郡山の順慶が少々の時間を有してしまったこと(実際に光秀が足を運んで迎えに来たことも含め。)がこのような不名誉な故事の主役にさせられてしまった理由の一つであるかもしれません。

大和郡山の地元の人にしてみれば、近年評価の上がっている順慶が史実ではない日和見主義のレッテルを貼られてるのには我慢出来ないかもしれません。ですが、私個人としては筒井順慶という人物が、天下の趨勢を見極める有能な戦国大名であるという一面もこの故事からはイメージ出来るのではないかと思います。もっとも、史実を明らかにする事はやはり一番大切ではありますけど。

関連記事

福知山城 穴太衆野面積みの魅力(2009.3.16)

コメント

  1. Yubarimelon より:

    yuki999さん、shinさん、c_yuhkiさん、xml_xslさん、fuzzyさん、nice!ありがとうございます。

error: Content is protected !!