池田屋事件 跡地に開店する居酒屋の内部を公開、大階段も

元治元年6月5日(1864.7.8)京都三条木屋町の旅宿池田屋で新選組が尊攘浪士を襲撃した事件、その跡地に事件が起きた同日7月8日居酒屋「海鮮茶屋池田屋はなの舞」がオープンする。 それを前に6日マスコミに向け店内が公開された。(2009.7.7共同通信)

記事によると、店内の改装工事には東映の太秦スタジオが協力したこともあり当時の池田屋の雰囲気を再現しているという。映画やドラマでは見せ場の一つとなる近藤勇が駆け上がる大階段も設置されている。

跡地に池田屋の屋号が復活するという内容の記事を4月に書いた時、現場に最初に到着した近藤の隊の中で死亡した3名の隊士の事を書きました。実はこの時に書き残していた件があり、それが今回の近藤周平についてであります。

ご存知のように、周平が勇の養子になったのは文久3年(1863)の末頃に実兄である谷三十郎、万太郎と共に新選組に入隊した後であります。大阪で道場を経営していた兄らとは違い、彼は学才には秀でていたものの、剣術に関しては並であったということです。勇にしてみれば、近藤家を継ぐ周平を周囲から出来るだけ良く見られたいという気持ちが当初はあったのではと思います。

それは池田屋事件3日後の日付である元治元年6月8日付けで勇が故郷日野へ書いた手紙に現われています。それが「打入候拙者沖田永倉藤堂養子周平今年十五歳右五人御座候」という部分です。新選組の活躍と養子周平を故郷の人達に大きく宣伝したい勇の気持ちが伝わってくる手紙ではありますが、事実とは異なります。永倉新八の「浪士文久報国記事」によれば、最初に突入したのは周平を除いた4名であり、これが現在一番事実に近いと思われています。また、周平自身は近藤の隊に配属されたと書かれている史料も他にはありません。実際池田屋事件に参加したことは、後に出動隊士のみが賜った報奨金を周平も受けていることから間違いはないでしょう。ただし、15両という額から近藤隊の隊士が平均20両を賜ってる事から考えて、土方隊に配属されていたというのが真相のようです。

周平は慶応2年(1866)4月に兄三十郎が死亡した後、養子縁組も解消されたようです。鳥羽伏見の戦いをへて新選組が江戸に帰還した後行方不明になったわけですが、故郷へ戻り54歳の天寿を全うしています。彼の思想が伺える史料は未だ発見されてはいませんが、池田屋事件当時16歳だったことを考えれば、新選組の名が天下に響いた大事件に自分も参加していたことを熱い思い出として胸に仕舞っていたのではと、想像してしまいます。

余談にはなりますが、記事中にある大階段は写真から見て表入り口側の表階段を再現していると思われます。前述した「浪士文久報国記事」にはこの件に関しても新発見がありました。それは「亭主驚キ奥之二階江去リ 跡ヲ直二ツケ参ル」とある記述です。池田屋惣兵衛が2階の浪士達に知らせるため、近藤がその後を追いかけたのは表口階段ではなく裏口側にあった階段だったのです。これにより、これまで浪士達が集まっていた部屋も表通りに面した部屋ではなく、裏庭に面した部屋であったことが判明したわけです。安藤早太郎、奥沢栄助、新田革左衛門が守備についた裏口に、逃げた浪士達が殺到したのも集まっていた部屋の窓を飛び降りたら、そこが裏庭だったからで説明もつくわけです。

居酒屋として再出発する池田屋ですが、新選組ファンや歴史が好きな方にはいろいろ楽しめそうな造りになっているようです。メニューも独自のものがあるようですし。まあ、飲みすぎて近藤に斬られた浪士と同じように大階段から転げ落ちる人が出なければいいと、今から思ったりしています。

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コメント

  1. J より:

    melon3こんばんは。
    関係ないコメントで恐縮ですが、
    Romanceに注意喚起情報載せました。

  2. Yubarimelon より:

    Jさん、おひさしぶりです。
    情報提供ありがとうございます。

  3. Yubarimelon より:

    nice!を入れていただいた皆さん、ありがとうございます。

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