操坦晋 流罪中の西郷吉之助が書の手習いとし学んだと郷土史家が考察

「敬天愛人」の遺訓で知られる西郷隆盛(1827-77)の書の師匠は、西郷が幕末の1年半、島流しされた鹿児島県沖永良部島の薩摩藩島役人坦晋(たんしん)(1800-61)だったと郷土史家の先田光演氏が現存する日記などから解読し明らかにした。(2009.9.11西日本新聞)

慶長14年(1609)に琉球王国を征服した薩摩は王国の形態をそのまま維持させ存続させた。このため、沖縄本島のすぐ北に位置する沖永良部島も薩摩の直轄地となり、最果ての流刑地という扱いではあったが、藩の支配が強い奄美大島と徳之島に比べ琉球文化圏を維持することも可能となったのである。

沖永良部島の人、操坦晋は19歳で琉球へ渡り唐語を習得し、22歳で鹿児島で医術を修めた当時の島の代表的な知識人だという。与人をしながら私塾を開き島の人々に和歌を教えていたということです。

与人(よひと)とは奄美群島を支配した薩摩藩が詰役人を派遣し統治した際、その補佐をした用人のことであります。鹿児島県史では与人を島役としている。彼らは通常現地の有力家系出身者から選ばれていた。(黒糖地獄と呼ばれた島民の苦しみの歴史や与人上国制についてはまた別の機会で)

文久2年から元治元年までの2年間を沖永良部島の座敷牢で過ごした西郷吉之助は島民に私塾を開き勉学を教えていたそうです。記事中にある坦晋が琉球で購入した漢書を孫の坦勁から借りて読んでいたというのは面白いと思いました。吉之助の塾生20人の中の一人が当時16歳だった坦勁であったそうです。塾生達は朝から晩まで一心不乱に吉之助の下で勉強したと伝えられています。

吉之助は塾生達に教える時間以外は漢書と書道に打ち込んでいたそうなので、師と仰いだ坦勁が祖父の蔵書だけでなく、書も貸していた可能性は十分ありそうです。在島中の18ヶ月の間に薩摩藩は薩英戦争に敗北、また京都では八月十八日の政変で長州藩の勢力は一掃され公武合体派の薩摩に風が吹き始めていました。帰参したい気持ちに心を乱す時もあったかもしれません、それでも生涯の思想である「敬天愛人」を完成させ平穏を保ちつつ時がくればと思い続けたことでしょう。

島に多くの徳を遺した吉之助は現在も島民に慕われています。沖永良部島には西郷の史跡や顕彰碑など多く残されています。奄美大島と共に私も一度はいつか訪れたい場所であります。

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敬天愛人(2008.7.15)

コメント

  1. fuzzy より:

    西郷隆盛は、奄美大島・徳之島・沖永良部島と、ずいぶん島に送られましたね、薩摩では当たり前の処分なのでしょうね。

  2. な〜ちゃん より:

    初めまして。
    ご訪問&nice!ありがとうございました。
    西郷隆盛が流罪になったのはNHKの大河ドラマ「篤姫」を見て知りました。
    歴史の教科書ではなかなかそこまでは教えてくれないんだなぁと思いましたが、もしかしたら聞いてなかっただけかも…。
    改めて、歴史の深さをもっと知りたいと思うようになっています。
    私ももう年なんですがね。

  3. kinkon より:

    初めまして。
    ご訪問とnice!ありがとうございます。
    >西郷吉之助は島民に私塾を開き勉学を教えていたそうです。
    その塾生たちがさらに教えて行ったそうですよ。座敷牢の中で書を読んでる西郷吉之助の姿を模した・・・があります。

  4. Yubarimelon より:

    fuzzyさん、コメントありがとうございます。
    遠島される毎に一回り大きな人物に成長したのが西郷さんの凄いところだと思います。

  5. Yubarimelon より:

    な~ちゃんさん、コメントありがとうございます。
    プロフィールに鹿児島の西郷さんの銅像の写真を使用されてたのでblog読ませていただきました。これを機会に歴史に関心を持っていただけたら幸いです。

  6. Yubarimelon より:

    kinkonさん、コメントありがとうございます。
    いつか沖永良部島には訪れてみたいものです。

  7. Yubarimelon より:

    nice!を入れていただいた皆さん、ありがとうございます。
    返事が遅れる事申し訳ありません。

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