西郷隆盛 官軍医の日誌より辞世の漢詩が発見される

明治10年(1877)西南戦争について新政府軍の軍医が書き残した日記に、西郷隆盛の辞世の漢詩ともみられる七言絶句が記されていたことが、12日までに分かった。調査した鹿児島市の西郷南洲顕彰館は「西郷が心境を述べた詩に間違いない」(高柳毅館長)と太鼓判を押すが、「官軍医の自作ではないか」とみる研究者もおり、真偽をめぐり論議を呼びそうだ。(2009.9.12西日本新聞)

『肥水豊山路已窮 墓田帰去覇図空 半生功罪両般跡 地底何顔対照公  西郷隆盛』 肥後や豊後への道はすでに窮まった。故山に帰り骨を埋めよう。維新完遂のために覇を唱えたが、今となってはもうむなしい(ここで戦いをやめよう)。我が半生を振り返ってみると、功罪両様の跡が残ってしまった。泉下で一体どんな顔をして、照国(島津斉彬)公にお会いすることだろうか。(西郷南洲顕彰館訳)

西郷は生前に194の漢詩を残しているが、辞世の詩は確認されていない。

発見された漢詩は官軍医山崎泰輔の『明治十年 西遊日記』の1877年9月24日付けの日誌に書かれていたものです。この日は西郷さんが鹿児島の城山で自害した日に当たっています。西郷南洲顕彰館によると、詩の内容から宮崎県延岡市の可愛岳で官軍の包囲を突破し鹿児島に帰る決心をした同じ年の8月17日に詠んだ詩ではないかとしています。その理由として、延岡に負傷兵として残さねばならなかった息子の菊次郎に自らの辞世の詩を託したのであろうと。菊次郎を治療したのが延岡に進駐した官軍の医師山崎で、その際に詩を書き写したものと推測しています。

ここで可愛岳越えに至る西南戦争の経緯を簡単に書きますと、明治10年3月に田原坂・吉次峠の戦いに敗れた西郷軍はその後も各所で果敢に戦うも、兵力と物量に勝る官軍に撤退を余儀なくされ続けました。8月西郷隆盛が延岡に入ると、各所で戦っていた西郷軍も集結。延岡が官軍に落とされたことにより、8月15日に西南の役で初めて西郷さんが戦場に立ち和田越えの決戦に挑みます。西郷軍3500に対する官軍5万で死闘5時間に及んだ末、敗走に至ってしまいました。長井村に包囲された西郷軍は軍議の末に軍の解散令を発し、残った精鋭1000名で一路鹿児島に向けて官軍の包囲網を突破することに決めました。

可愛岳は標高727.7mですが、官軍が不意を突かれたようにまさかここを越えてくるとは思いもよらない程険しい山であるそうです。現在でも登山道入り口の写真を見ると山道は狭く、この険しい山道を重い西郷さんを輿に乗せ山を越えたのは大変だったことでしょう。

さて、発見された漢詩ですが、検証した西郷南洲顕彰館では文章構成が西郷の詩に似ているとし、直筆ではないが本人の作品である可能性は高いとしています。一方、日誌を保管していた山崎軍医の子孫が住む北海道札幌市で漢詩を検証した古文書研究者の鬼柳規子さんは、詩の末尾に『西郷隆盛』とあるのは題名で山崎軍医の作品ではないかと推測しています。

奄美大島の愛加那との間に生まれた菊次郎に託したとされる詩が本物であるなら、これまでどうして陽の目を見なかったのでしょうか?重傷を負っていたので詩を託されたことを憶えていなかったのでしょうか。京都市長を務めた菊次郎氏が故意に父の辞世の詩を封印していたとも考えにくいです。記事にもある通り、軍医の日記に西郷さんの詩を書き写した経緯も書かれていないことから真贋の確証は今後の調査次第であるとしています。詩の内容としては如何にも西郷さんらしいものではありますが、間違いなく本物であると言い難いのが残念であります。歴史的な人物の辞世の詩だけに、灰色のままとせず本物として歴史の1ページに載せてほしいものです。

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『鹿児島市城山岩崎谷にある西郷隆盛終焉の地。』

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田原坂・吉次峠 西南戦争の古戦場を国史跡へ(2009.6.6)

*コメントと写真を追加しました。(2011.12.12)

コメント

  1. やまがたん より:

    大阪に帰省中につきコメントは差し控えさせて頂きます
    訪問ありがとうございました^^
    ( ゚∀゚)o彡°広告もランキンクも゙☆ポチッとオウエン☆

  2. Yubarimelon より:

    やまがたんさん、ご訪問ありがとうございます。
    またblog読ませていただきます。

  3. Yubarimelon より:

    nice!を入れていただいた皆さん、ありがとうございます。

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