新選組伍長 近藤芳助 子孫に伝わる近藤、土方の写真の真実は

10月20日に放送されたテレビ東京系『開運!なんでも鑑定団』の中で新選組伍長近藤芳助の子孫に伝わる近藤勇・土方歳三の古写真が取上げられた。その由来は明治になり元幕府医学所頭取松本良順より写真を借りた芳助が複写したものだという。鑑定士の評価は高く、オリジナルの写真から複写したものであり、オリジナル自身も親しい人にしか配らなかったため数も少なく複写といえども価値があるということだ。特に近藤勇の腕を下ろした写真は現存数が4枚程しか確認されていないため、非常に珍しいという。

鑑定士がつけた2枚の古写真の金額が高いか安いかは私には判りません。むしろ、このような歴史的遺産に果たして値段を付けて価値を判断していいものかというのが本音であります。それよりも放送を見終った後で、私はこの写真についていささかの疑問を持つこととなりました。

*追記分を掲載いたしました。(2009.10.25)

*追記分を掲載いたしました。(2010.2.10)

私が最近読んだ比較的新しい(といっても96年発行ではあるが)新選組研究の書『新選組実録』(相川司/菊池明共著 ちくま新書刊)の中で明治期に近藤芳助を訪れた新選組の朋輩粂部正親が近藤と土方の写真を持参し、芳助がこれを数枚複写して小樽の杉村義衛(永倉新八)にも送ったと書いてあったからです。

実を云えば、今回取上げられた近藤芳助由来の2枚の古写真は新選組の研究書などにはこれまで何度も取上げられている比較的有名なものです。『新選組実録』の中にはこの由来に関するソースは示されてませんでした。そこで、巻末の参考文献の中にあった釣洋一氏の『新選組再掘記』(新人物往来社刊)を書庫から取り出し読み直してみたところ、書中に資料として「近藤芳助書翰」という章が掲載されていました。内容は明治期に高橋正意という人に宛てた新選組回顧の手紙です。写真については触れられていませんでしたが、粂部正親(名前が親正と逆に書かれている)の項目の中に招魂祭に夫婦で芳助宅に一泊したと書かれています。

書庫の「再掘記」の隣に同じく釣氏の『新選組秘録』(新人物往来社刊)があったのでこれも開いてみると、「川村三郎の軌跡」(川村三郎は明治期に芳助が改名した名前、あるいは本名で近藤芳助から戻したとする説もあり)という章がありました。これを読んでいくと、近藤芳助の古写真粂部正親持参説はこの書籍が確かなソースになっているのではないかと思われます。この著書より察するに上記の高橋正意を調査する過程で釣氏は番組の依頼人である浅田康夫氏の奥さんの実母(芳助の令孫)のもとを訪れ、その時に今回鑑定に出された古写真2枚の存在を確認し取材しているようです。つまり、『新選組秘録』が刊行された昭和51年以前にこの古写真はすでに世に知られていたということになります。

番組を録画していなかったことが悔やまれますが、鑑定士が写真を鑑定した際に写真の裏側も確か一瞬写っていたはずです。ならば、近藤の写真には「明治元戊辰四月二十日 於東京府板橋駅死ス 貫天院殿純義誠忠大居士 俗名 近藤 勇 行年三十六歳」(年が一つ多く、命日が一日早い)、土方の写真裏には「土方歳三君 明治廿壱年九月猪野忠敬氏所持之分複写」(猪野忠敬は明治期に粂部正親が改名した名前)と書かれていたはずです。

粂部が持参したのは現存している古写真が証明しています。一体どこから松本良順より借り受けたという話が出てきたのでしょうか?もしかしたら、それが番組の中で依頼人の浅田氏が話していた「自分だけが新選組の真実を知っているという事で満足している。書籍にまとめるつもりはない。」ということなのでしょうか。

また、粂部が写真それもオリジナルを所持していたという史実により一つの説が生まれました。それは彼が土方の写真を持っていたことで、それが撮影された時期と場所を甲州勝沼の戦いの前に横浜か江戸で撮影されたと考えられるようになったことです。というのも、粂部は土方と共に会津戦争に参陣しますが、母成峠の戦いの後に土方とは別れ山口二郎(斉藤一)らと会津に残留し如来堂の戦いを経て官軍に拘束されたため、写真が函館で撮影されたのであれば所持出来るはずがないと推測できるからです。

しかし、現時点で土方の写真は函館で撮影されたする説が有力視されています。その証拠が下の二枚の写真です。一枚は土方の全身が写ったもの、もう一枚は榎本武揚ら蝦夷共和国士官の集合写真です。ここで注目したいのが土方が腰掛けてる椅子と集合写真の前列左側荒井郁之助が座っている椅子が極めて似ているということです。写真館にある椅子なんてどれも同じだといえば、それまでですが。

粂部の持っていた写真はこれとは異なり半身のものですが、こちらも写っている椅子が函館の写真館で保存されていた蝦夷共和国会計奉行榎本対馬守の写真に写る椅子と同じものではないかとする説があります。(未確認なのであくまで推測ですが、椅子の縁の同じ場所に傷があるらしいです)

函館で撮影された土方の写真、しかもオリジナルを粂部正親が手に入れることはほとんど不可能のように思われます。現実的に近藤の写真と合わせてそれを手に入れられ、しかも明治の後も元新選組隊士らと親しく交流した人物といえば松本良順がまず考えられます。ある程度推測はしていたのですが、実際今回の疑問を調べていくうちに古写真研究家の森重和雄氏のサイトの中で、あくまで逸話として猪野忠敬が何度もお願いして松本良順から写真を借りたという浅田氏の話を紹介していることを知りました。(上記の土方と榎本対馬守の椅子の傷についても森重氏が推測したものです)

それにしても、最初から川村三郎が写真裏に一言「松本良順先生より借りし写真を猪野忠敬氏が所持していたので複写した」と書いておけば良かったのではと思います。しかし、写真が小さかったこともありますし、あえて粂部所有の写真のように書いたところに新選組隊士として幕末から共に生き抜いた二人の友情を感じてしまうのは私だけではないはずです。

個人の小さな思い一つで歴史というのは実にミステリアスで面白いものになることをあらためて感じました。私としても色々勉強出来たわけですから、まあ良しとしましょう。

追記

松本良順が近藤勇のオリジナル写真を所持していた一つの推測として、京の写真家堀与兵衛が二人を撮影したと見られる写真(下2枚)があります。それぞれが敷いている敷物の柄が同じであるというのが根拠のようです。江戸日野の佐藤彦五郎の子孫に伝わる近藤の写真の裏側には、「慶応二年撮影」と書かれ、松本良順の写真裏側には「慶応元年於大坂寫幕府侍医法眼松本良順肖照」と書かれています。この時期良順は新選組の屯所を訪問し衛生面でのアドバイス等を行い、その後も近藤と親しく交流していることから写真を本人から贈られたのか、あるいは堀与兵衛から焼増しをして所持していた可能性は十分あると思われます。

追記2

このblogを書く際に参考にさせていただいたサイトの森重和雄氏より貴重なコメントをいただき、本文の誤りをご指摘いただきました。訂正箇所に関しては、私が新たに加筆するよりも森重氏のコメントのほうがはるかに的確で判り易いと判断しましたので、下記のコメントを参照していただくこととさせていただきます。なお、本文も訂正を加えずに公開時のままとさせていただくことをご了承よろしくお願いします。

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