屋代越中守秀正 戦国乱世を生き抜いた処世術

戦国武将上杉景勝の重臣である直江山城守兼続(1560-1619)が会津葦名家に宛てたこより状の密書が見つかり、12日、東京都内で報道陣に公開された。関ケ原の役直前に徳川家康に送り兼続の名を高めた「直江状」は後世の写しがあるだけで、今回のような「書状の原本は非常に珍しい」(増田孝愛知文教大教授=書跡史学)という。(2009.11.13毎日jp)

発見された直江兼続の密書には天正12年に謀反を起こし城から行方不明となった屋代秀正に対して注意を促す内容が書かれてるとある。当時、上杉家が支配する海津城の副将であった秀正は守将の山浦景国(村上義清の息子)と折り合いが悪く、北信濃に侵攻した徳川家酒井忠次の仲介で更科の支配を任せる件を持ちかけられた事を切欠に上杉家から離反した。

もともと東信濃埴科郡荒砥城は秀正の先祖伝来の土地であり城であったため、天文年間より反目し合う村上氏と顔をつき合わせてるより、旧領を復帰出来るという徳川の餌に食いつく方がはるかに魅力的であったわけだ。しかし、記事にある密書が送られた後、秀正は景国と上杉勢の猛攻を受け持ち堪えられずに城を捨てて家康の下に逃亡。荒砥城はその後徳川の進出を嫌った景勝により廃城となった。

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こより状に裁断されて送られた兼続の密書』  

屋代秀正はさかのぼれば、山浦景国(村上氏)と祖を同じくする一族でありました。戦国時代、 屋代氏が治める荒砥城の千曲川をはさんだ対岸山頂にある葛尾城の城主村上義清は、武田晴信の信濃侵攻に対して反骨を示した戦国武将でした。天文17年(1548)上田原の戦いでの勝利、同19年(1550)には本領の留守に虚を突いて砥石城を攻めた晴信に対しては反撃で退却させ、その後の追撃戦いわゆる砥石崩れでは大打撃を与えています。

これに懲りた晴信は力ではなく調略によって村上方の武将を切崩していきます。この時に屋代家も武田方に寝返ったわけです。結果、勢力を削がれた義清は長尾影虎を頼って越後に落ちのび、これが後に10年近く続く川中島の戦いの引き鉄となったわけです。

秀正は武田勝頼が天正10年(1582)に天目山で露と消えた後、短期間ではありますが信長の武将森長可の与力となっていたようです(魚津城の戦いの中で春日山城を攻略に向かう森長可の陣にいたと思われます)。しかし、本能寺の変で織田勢が北信濃から撤退した後は、当然のように上杉景勝に臣従しています。そして、同年松代の海津城に入った山浦景国の副将に命ぜられました。

義清の子国清は父と共に越後に移った後、影虎の養女を娶り上杉家の一門山浦家の跡継ぎとなります。海津城の守将に命ぜられた際、屋代家らの離反がなければ村上氏の没落はなかったという過去の経緯から秀正とは当初よりそりが合わなかったのは明らかでありましょう。

話を屋代秀正に戻しますと、徳川家の下で大阪の陣を戦いその功労が認められて甲斐に領地を与えられています。その後駿河大納言忠長の家老となり小諸城1万石を与えられた後、忠長改易により連座で蟄居しましたが、寛永5年に赦免され安房国北条藩1万石(現千葉県館山市)を立藩することができました。秀正亡き後、北条藩は2代続きましたが、財政難を理由に改易させられています。(屋代氏はその後旗本三千石として存続している)

戦国期だけで五つの主家を渡り歩いた屋代氏ですが、当時の考え方としては大きな傘の下で保身することはそれこそ常套手段であったわけです。もちろん、新しい主の下での戦となれば激戦区に立たねばならないという厳しい面もありましたが、それでも自家の存続は最優先であったことでしょう。江戸時代に儒教が広く浸透し、今日の私達さえも主を何度も変える姿勢そのものには懐疑してしまう一面があります。しかし、大きな波に飲み込まれ消えてしまった武家が数え切れない程あった戦国時代を生き延び、大名にまで上り詰めた屋代秀正、これはこれで賞賛に値するのではと私は考えます。

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コメント

  1. fuzzy より:

    武家は所領に対し命を懸けます、江戸時代以前は主君より領土が優先ですから、おいしい話には簡単に靡くのは当然ですね。また、義理や意地は家を潰す元になった例が多く、自家の為時勢を読み処世術に長ける者は
    大した人物と思います。

  2. Yubarimelon より:

    fuzzyさん、コメントありがとうございます。
    当時の人達にとって自らの家を存続させることが如何に重くのしかかっていたかと強く感じられます。

  3. Yubarimelon より:

    niceを入れていただいた皆さん、ありがとうございます。

  4. トッキー より:

     難しいですね
    世渡り上手く生き残れた者もいるし、
    義を貫いて家を存続させた者もいる
    結果よりも、自分自身が納得出来る生き方が出来るれば良いのかもしれませんね。
    なんて生意気な事を言ってしまいました。
     とにかく勉強になりました。
    有り難うございましたm(__)m

  5. Yubarimelon より:

    トッキーさん、コメントありがとうございます。
    今も昔も自分自身が納得できる生き方が出来るのが一番よいのだとは思いますが、人生は中々思うとおりにはいかないのも昔と同じかもしれません。

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