新選組二番隊組長 永倉新八 会津藩士の子孫が著書「新撰組顛末記」の通説を訂正

新選組の元幹部、永倉新八が慶応4年8月の会津戦争の際、現在の福島県会津若松市内で宿泊した先は、通説の「酒造家石塚」ではなく「酒造家石津屋」とみられることが、幕末明治史の研究に取り組んでいる札幌市教育文化会館館長好川之範氏らの調査でわかった。(2009.11.30毎日jp)

慶応4年3月甲州勝沼の戦いでの敗走の後に永倉新八は近藤勇と袂を分かち、原田左之助と共に松前藩の旧友芳賀宜道を隊長とする靖共隊を結成し奥羽戦役を戦った。会津戦争では若松城がすでに新政府軍に包囲されていたため城内への合流を果たすことが出来ず、雲井龍雄の誘いで米沢藩に向かうが、上杉家も降伏したため江戸へ戻っている。

1.jpg

『若かりし日と往年の永倉新八の写真』

新八が宿陣したとされる酒造家石津屋は若松城の北北東1.2km程の場所、現在の会津若松市行仁町にあったと記事には書かれています。この場所は滝沢本陣のかなり手前で新政府軍がしいた若松城包囲網のすぐ外側であったと思われます。恩義のある会津藩のために戦いたいと思う新八が、危険を承知で入城の機会を伺っていたのではと推測できます。

新事実を発見された好川氏は「歴史上の大きな問題ではないが、空間を埋めることが出来て満足している。」と話されています。これは新選組ファンだけでなく、全ての歴史を愛好されている方々の目指しているところなのではという気がします。史実としては些細なことであろうと、真実を探求しそこに到達することが出来た達成感は代えがたいものがあるはずです。小さな事実も積み重ねていけば、やがて大きな歴史になりうる可能性はいくらでもあるわけです。それゆえに、普段から疑問に思ったことはないがしろにせず、探求する姿勢を持つことが大切なのではと自分にも言い聞かせています。おそらく、多くの新選組研究者が今回の記事に触発され、自分もと思ったのではないでしょうか。かくいう私も熱い想いで記事を読んだのは云うまでもありません。

維新後の新八は名を杉村義衛と変えはしましたが、新選組を後世に伝えるための著述や生き残った元隊士達との交流などに尽力しました。近藤が処刑された板橋宿には隊士達の名を刻んだ近藤、土方の墓を建立し、敷地内に自分の墓も建て分骨して仲間と一緒に眠っています。考えるに晩年の新八にとって、新選組とは青春時代の思い出だけにとどまらず、人生の全てだったと思っていたのではないでしょうか。

関連記事

新選組伍長 近藤芳助 子孫に伝わる近藤、土方の写真の真実は(2009.10.23)

池田屋事件 跡地に開店する居酒屋の内部を公開、大階段も(2009.7.7)

芹沢鴨 茨城県行方市で記念の純米酒を発売(2009.5.4)

歴史の舞台に想いを馳せる 池田屋騒動址の屋号が復活(2009.4.25)

新選組総長 山南敬助(2009.1.8)

新選組副長 土方歳三(2009.1.1)

*記事及び写真の無断転載は厳禁といたします。

コメント

  1. fuzzy より:

    長倉新八は新選組一の剣豪、そして生き残りですね。彼は新選組を愛していたのですね。ひとつ疑問が「新選組」「新撰組」どちらが正しいのか解らないですね。どちらも使用されています。

  2. Yubarimelon より:

    fuzzyさん、コメントありがとうございます。
    選と撰のどちらが正しいのかは、良く聞かれる問題ですね。八月十八日の政変で壬生浪士組が評価されて命名されたわけですが、その時にどちらの字が使われていたのかが判明すれば理解しやすいのですが。
    近藤自身、手紙には両方の字を使っているのでどちらも間違っているわけではないと思います。

  3. fuzzy より:

    不可解ですが、どちらも正しいらしいですね。会津→選、隊→撰を使用したらしいです。壬生八木邸には「新選組」が掲げられていますので、こちらかなと感じますが。

  4. Yubarimelon より:

    fuzzyさん、コメントありがとうございます。
    個人的には「新選組」の方がしっくりきますね。

  5. Yubarimelon より:

    niceを入れていただいた皆さん、ありがとうございます。

error: Content is protected !!