古東領左衛門 天誅組に参加した淡路豪農の書を子孫が寄贈

兵庫県あわじ市津井地区出身の大地主で幕末に尊攘倒幕派の天誅組に参加した、古東領左衛門(1819-64)の子孫がこのほど、領左衛門直筆の書2点を津井地区公民館に寄贈した。同公民館では知られざる郷土の偉人を紹介しようと書を展示しており、川上彰館長は「多くの人に領左衛門の功績を知ってほしい」と呼び掛けている。(2010.2.20神戸新聞)

淡路の豪農である古東領左衛門が幕末の動乱に身を投じたのは、後に天誅組総統となる松本奎堂と藤本鉄石と懇意であったからであろう。領左衛門は予てから勤皇の志士達の財政的バックアップを行っていたが、天誅組挙兵に際しては私財全てを投じたという。そして、自身も文久2年(1819)に上洛し、その一挙に加わっている。

大岡昇平著「天誅組」によると、領左衛門は文久元年に自家の田畑を作るための小屋としながら村内字内原に兵舎を建設し、阿波より招いた剣客梶原四万助から村の壮丁達に武術を学ばせていたそうです。また、津井港の開削や岩屋港の改修に私財を投じたと記事にあるよう、この二つの港は明石、鳴門海峡の西側に位置するため大阪湾防備の要となります。領左衛門が養成していたのはあくまで淡路の海岸防衛隊でしたが、松本奎堂はこれを倒幕の私軍として利用するつもりだったということです。

領左衛門本人は文久3年8月13日の孝明天皇大和行幸の先陣として、五条代官所を襲撃した天誅組の挙兵に参加することになります。この地を御裁所と宣言し天皇をお迎えする予定でしたが、直後に八月十八日の政変が起こり一転追討身分となってしまいました。脱出後、京の木屋町桝屋藤十郎方に潜伏します。

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『平野國臣と古東領左衛門』

一方、朝廷における尊攘派公卿の中心人物三条実美より天誅組の挙兵を中止させるよう政変前日に命ぜられた福岡藩藩士平野國臣は、一日違いでこれに失敗し京に戻りますが三条らはすでに追放された後でした。平野は豪商鴻池家の山中成太郎方に身を潜めたところ、同月22日早朝に平野をマークしていた新選組隊士数十名に探索され領左衛門宅へ逃れます。その翌々日の24日午前4時頃、土方歳三率いる60数名の隊士が旅籠豊後屋と領左衛門宅を急襲。前日のうちに平野は逃亡していましたが領左衛門は捕縛されてしまいました。この時豊後屋には長州藩の品川弥二郎、時山直八、堀真五郎らも居合わせてましたが偽名を使い逃れています。

武家伝奏より「新選組」の名を拝領して間もないことから、60名もの隊士を動員してまで倒幕派の大物平野國臣捕縛という功名を求めていたと考えられるこの事件。領左衛門宅のあった場所から事件を「三条縄手の戦い」と土方は故郷への手紙に書いています。

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『故郷日野に送られた三条縄手の戦いで使用された土方歳三の鉢金と同封された手紙(土方歳三資料館蔵) この鉢金は八月十八日御所非常、ならびに三条縄手のたたかいに用い候、佐藤(彦五郎)兄に送ると書かれている』

難を逃れた平野國臣は大和国で戦闘中の天誅組と連携するため生野にて挙兵しましたが、周辺諸藩が兵を動員したため失敗、逃亡中に捕まり京の六角獄舎に送られてしまいました。そして、元治元年(1864)7月20日、禁門の変に際して都に広がった火事が獄舎に飛火したため、囚人の脱走を恐れた京都所司代の役人により國臣と領左衛門は斬首されています。

明治維新のような時代の変革を成功させる事が出来たのは、ひとえに領左衛門のような篤志家の存在が大きかったといえるのではないでしょうか。資金を供出できる人が人を動かせる人を援助し時代を動かす。自らの利益を考えずに、変革の価値を共有できる素地が当時の人達には誰にも備わっていたからこそ実現できたのではと思えます。価値観の異なる現代の私達が同じことをするというのは中々難しい話のようです。

コメント

  1. Yubarimelon より:

    niceを入れていただいた皆さん、ありがとうございます。

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