容保桜 京都守護職上屋敷跡の桜木に命名

幕末に京都守護職上屋敷があった京都府庁の桜に、当時、守護職を務めた会津藩最後の藩主松平容保(かたもり)公の名を取って「容保桜」と名付けられた。(2010.3.4福島民友ニュース)

慶応三年十二月(1868年1月)、松平容保は王政復古の大号令後の小御所会議により守護職罷免を言い渡され、徳川慶喜、京都所司代松平定敬と共に二条城を退去し大阪城へ移った。文久ニ年十二月に入京して以来5年、身を挺して職務を全うしてきたという強い信念は、決して折れることはなかったであろう。

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容保公が京を去ったのは一年でも一番寒い頃だったのではないでしょうか。寒さの中、大阪へ向かう公は、1年前の慶応ニ年十二月廿五日に崩御された孝明天皇から授けられた御宸翰を思い出していたかもしれません。

「堂上以下 暴論を疎ね 不正の処置増長し 心痛耐え難く 内命を下せしところ 速やかに領掌し憂患掃攘 存念を貫徹の段 全く其方の忠誠にて 深く感悦のあまり 右一箱 これを遣わすもの也」

これは元治元年(1864年)禁門の変に際して、容保公の忠誠をほめたたえた御直筆の書でありました。この御宸翰の存在は明治二十六年に容保公が亡くなられるまでその存在さえ知られてなかったのです。小さな竹筒に御宸翰と御製二首を入れ、入浴時以外は終生肌身離さなかったからです。御宸翰の内容に容保公は感激し涙したということです。もしかしたら、京を去るこの時点で、すでに竹筒を首から下げて身につけていたかもしれません。そうであれば、肌に御宸翰の存在を感じながら、心の中で、自分はこれまで朝廷に対して弓を引く行為などしてきたことはない、それだけは間違いないと繰り返していたことでしょう。

しかし、一方的に朝敵という汚名を着せられ明治を迎えた容保公でしたが、会津の悲劇に関しては、周囲には一言も語らなかったということです。多くの会津藩士や家族達の悲劇は、自らの責任であると一途に考えていたからでしょう。残された時間の中で、唯一つの支えが孝明天皇が自らを御信頼されていてくれたという御宸翰だったはずです。

世の人の心や深く染めぬらん うすずみ桜あかね色香に」会津若松市には容保公の歌碑が四基存在しています。これはその中の一首、伊佐須美神社の御神木である会津五桜の一つ薄墨桜を詠んだ歌です。遠州流という花道を修めていた公ですから、桜も好きな花の一つだったに違いありません。京の上屋敷跡の桜に自らの名前を冠してくれたこと、喜んでいることでありましょう。

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コメント

  1. fuzzy より:

    朝廷に対し忠誠を尽くした、会津藩が朝敵の汚名を着せられたのは、不条理としか言いようが有りません。会津戊辰戦争の悲劇には思わず涙してしまいます。私は薩長の目に余るエゴが好きではないのです。

  2. ノリパ より:

    忠義一筋の会津公、美しいですよね。大好きです。

  3. Yubarimelon より:

    fuzzyさん、コメントありがとうございます。
    戦争というのは常に悲劇そのものですが、会津藩に降りかかったそれも実に哀しい気持ちにさせられます。

  4. Yubarimelon より:

    ノリパさん、コメントありがとうございます。
    善悪の判断はともかく、容保公の貫いた姿勢を日本人なら皆美しいと感じるのではないでしょうか。

  5. sig より:

    会津の戊辰戦争における無念は、やはり消えることは無いでしょう。
    「勝てば官軍」ではなく、その影となった会津、長岡両藩の悲劇は、歴史の事実として語り継いでいかなければなりませんね。

  6. Yubarimelon より:

    sigさん、コメントありがとうございます。
    日本人ゆえにどうしても賊軍とされた側を贔屓目に見てしまいがちですが、やはり真実を語り継いでいきたいものです。

  7. Yubarimelon より:

    niceを入れていただいた皆さん、ありがとうございます。

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