白鳥十郎長久 その実像にせまる書状を発見

山形県村山市から河北町へと勢力を伸ばし、最期は山形城主最上義光に謀殺されたと伝えられる悲運の戦国大名、白鳥十郎長久の直筆とみられる書状が宮城県白石市内で発見された。2月23日には長久ゆかりの地である村山市戸沢地区の住民らが白石市を訪れ、謎も多い長久の貴重な史料と対面した。(2010.3.7河北新報)

戦国時代末期の出羽国はその覇権を巡り、最上氏を中心に周辺の豪族達と群雄割拠をしていた。なかでも谷地(現山形県西村山郡河北町)に勢力を持つ白鳥長久は最上義光とともに出羽の双傑と称された武将である。天正5年(1577)、長久は最上氏の家職である羽州探題に自らを織田信長に認めさせるよう外交を行ったが、逆にこれが義光に殺害される原因となってしまった。

記事中の書状は昨年9月、伊達家宿老の家柄である遠藤家子孫方から発見された古文書の中の一枚である。大崎義隆の上洛にあたり、長久が伊達領内の通行を遠藤基信に要請したというもので、これと期日と内容が全く同一の記録が元禄年間に編纂された仙台伊達家の正史である「性山公(伊達輝宗)治家記録」の中に記されている。記録と書状が一致したことで、これまで伝説や物語が先行していた白鳥長久の研究が大いに進む可能性が見えてきた。

郷土史とは誰の心にも存在する故郷の歴史。そんな郷土史の中には必ずと言っていいほど、歴史の表舞台から姿を消した、あるいはその実像から些か踏み外して語り継がれてきた人物がいるものです。戦国末期の出羽国で最上義光と覇権を争った白鳥十郎長久も、これまで真実をあまり知られることなく今日まできてしまった武将の一人であると思います。

現存する史料が数少なかったことから、史実として認識されている長久についても限られたことばかりでした。当時、群雄割拠の中から戦国大名としてのし上るには、周辺の豪族達を斬り従えると同時に親族間の統一が何よりも急務だったことは名だたる武将達からの例でも明らかです。長久は白鳥(現山形県村山市白鳥)の領主として周辺の寒河江氏、天童氏と同盟し現在の河北町のほぼ一帯を支配しました。

一方、天文元年(1541)に奥羽山脈を越えた陸奥国では急激に勢力を拡大した守護職伊達稙宗とその嫡男晴宗(政宗の祖父)との間で内紛が起こります。伊達家は最上、相馬、蘆名、大崎、葛西という有力豪族を従えていましたので、この争いは奥羽一帯を巻き込む大乱(天文の乱)となったわけです。長久はこの時最上氏の手勢として稙宗方に味方しています。

また、天正元年(1573)に今度は最上家の中で当主義守と嫡男義光が家督争いを起こします。義光は伊達家からの独立を目指してましたので、義守援護を名目に伊達輝宗が領内に出兵し、長久も周辺の豪族達と同調して義守側につきました。しかし、義光の武将としての器はこの絶体絶命の中でも遺憾なく発揮され、当初劣勢であった状況を序々に盛り返してゆきました。これを見た長久は伊達家を通して自ら義守と義光の仲介に入り和議を成立させています。その結果、最上氏は伊達家からの独立に成功し、長久も領内で第一人者としての地位を固めることが出来たわけです。

長久が義光に山形城内で謀殺された後、白鳥氏は滅亡しました。そして、最上家も義光亡き後わずか9年で幕府より改易を受け断絶となっています。大名家としての最上家はなくなりましたが、その血筋は時と場所を変え継続したことは以前に書いたとおりです。

地元山形県では滅びた最上家を慕い、優れた戦国武将としての義光を尊敬するという風潮が現在も生きています。このため、江戸期に書かれた出羽の軍記や物語は最上氏を主人公として書かれたものがほとんどなわけです。そして、どの書でも長久は義光に比して取るに足らない人物として描写されているといった具合です。こうした史実と異なる評価と一般のイメージを正そうという動きは地元の白鳥や谷地の方々、篤志家らの間で顕彰碑を建立するなどして以前から行われていました。しかし、何より長久の史料も出尽くしてしまった感がありましたので、大きな進展は見られなかったというのが現状です。

史料から長久は情報収集と外交能力に長けた武将であったということが判ります。惜しむらくは、いよいよ出羽国統一を目指す最上義光と領土を賭けた四つに組んでの戦を行うという時、相手の謀略によって落命してしまったということです。これは義光自身も長久と真っ向からの勝負を避けたかった結果なのでしょうが。

中央では信長の天下布武が実現しそうな気配を見せていましたから、長久もその傘下で領国の安泰を図れることに自信を持っていたことでしょう。しかし、逆に義光に対しては少し油断が生じてしまったのかもしれません。あるいは義光が怖くて病気見舞いも出来ないという風聞を恐れ、罠であることを自覚しつつも家臣の制止を振り切り山形城へ赴いた可能性もあります。どちらにしても、出羽の双傑と称されたほどの人物ですから、新たな事実が判明し歴史の1ページが書き加えられることを期待したいと思います。

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コメント

  1. さーやん より:

    今日は・・・宜しくお願い致します

  2. Yubarimelon より:

    さーやんさん、こんにちわ。
    こちらこそよろしくお願いします。

  3. Yubarimelon より:

    niceを入れていただいた皆さん、ありがとうございます。

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