千葉佐那子 美しき女性であったと宇和島伊達家の記録に記述

坂本龍馬が江戸で剣術修行中に知り合い、婚約したとされる千葉佐那が、飛び切りの美人であったという記述が、愛媛県宇和島市に残る宇和島藩8代藩主・伊達宗城(むねなり)(1818~92)の記録「稿本藍山公記(こうほんらんざんこうき)」(宇和島伊達文化保存会蔵)にあることがわかった。
(2010.3.21Yomiuri Online)

此はしハまづ人にゆハれんぞよ すこしわけがある 長刀順付ハ千葉先生より越前老公へあがり候人江 御申付にて書たるなり 此人ハおさなというなり 本ハ乙女といいしなり 今年廿六歳ニなり候 馬によくのり剣も余程手づよく 長刀も出来 力ハなみ々の男子よりつよく 先 たとへバうちにむかしをり候ぎんという女の 力料斗も御座候べし かほかたち平井より少しよし 十三玄のことよくひき 十四歳の時皆伝いたし申候よし そしてゑもかき申候 心ばへ大丈夫ニて男子などをよばず 夫ニいたりてしづかなる人なり ものかずいはず まあ々今の平井々  〇御文難有拝見 杉山へ御願の事も拝見いたし候 其返しハ後より々  十四日  龍  乙様

これは文久2年(1862)3月に脱藩した龍馬が千葉佐那について、故郷の姉乙女に宛てた手紙の全文である。(注1)

20100321-229700-1-N.jpg

『稿本藍山公記に左那ハ、容色モ、両御殿中、第一ニテという記述が確認できる』

昭和60年龍馬生誕150年を記念し、札幌松屋デパートにてはじめて公開されたこの手紙を「龍馬百話」の著者宮地佐一郎氏は佐那への想いを情熱的に書いたものとして紹介しています。一方、佐那も晩年「女学雑誌」(明治26年9月号)に龍馬の談話を発表しています。それには未来の夫である坂本龍馬氏は千葉家で剣術を学んだ際に自分のことを見初め、父定吉に結婚を望んだとのこと。そして、天下静定の後を待って華燭の典(結婚)を挙げたいと。定吉もそれを許可し、二人は許婚同士となったというのです。

佐那の回想では龍馬からプロポーズしたようです。しかし、2年後の元治元年に龍馬は京の町医者楢崎将作の娘お龍と出会い、5月頃には結婚してしまいました。動乱の幕末さながら、龍馬の心中も移ろいやすかったのでしょうか?確かに言えることは、この時点で佐那との恋は終わっていたということです。

維新後、佐那は自分の下へ帰ることのない夫に対して節を守り、生涯独身で通しました。父定吉は明治12年に亡くなり、兄重太郎も京都に居を移していました。学習院女学館寄宿舎の舎監を務めた後、千住(現東京都足立区千住仲町1番1号)で千葉家伝来の針灸治療院を営んでいました。そして、養子勇太郎が亡くなった翌年の明治29年に59歳でその生涯を終えています。山梨県甲府市にある坂本龍馬室と書かれた彼女の墓は、生前懇意にしていた自由民権家小田切謙明の豊次夫人が無縁仏になることを悲しみ、谷中墓地から小田切家墓所内に分骨したものです。

話を上の手紙に戻してみますと、「歴史読本98年7月号」に幕末維新研究家の菊地明氏がこの手紙の新解釈を寄せています。問題にしているのは後半に書かれている「いまの平井々」の箇所です。手紙は長刀順付(現存している龍馬の北辰一刀流長刀目録)を書いてくれた人物、すなわち佐那を紹介する内容になっています。菊地氏は龍馬と佐那の恋愛が現在進行形であるなら、いまの平井と表現するのでは意味が通じない、つまり過去の恋愛対象であった加尾と比較するのなら昔の平井としなければおかしいのではないかということです。

佐那は雑誌のインタビューでは婚約を安政5年(1858)頃、すなわち龍馬の2回目の江戸留学時とし、北辰一刀流目録を授かった時期と回想しています。龍馬の手紙に出てくる越前老公の文字と婚約時に龍馬が春嶽公から拝領した紋付を送ったとする話から、実際の婚約は龍馬が脱藩した後の文久3年頃で佐那の記憶違いだったのではと考えられています。

菊地氏は龍馬の佐那への恋心は安政5年を頂点に、手紙を書いた文久3年頃は初恋の人加尾を再び想っていたというのです。それを示す証拠が文久3年6月29日付けで姉乙女に宛てた通称「日本の洗濯」と呼ばれる手紙の追伸部分にあるというのです。

そして平井の収次郎は 誠にむごいむごい  いもうとおかおがなげきいかばかりか ひとふで私のようすなど咄してきかしたい まだに少しはきづかいもする

 平井収次郎の切腹を悲しみ、その妹加尾に自分の話を聞かせて元気づけたいとする気持ちを綴っています。それゆえに、手紙には昔の平井と書かず、現在想いを寄せている今の平井と書いたのだと菊地氏は解釈したわけです。もしこれが事実と仮定するなら、以下のような想像ができます。恋愛中であった安政5年に龍馬と佐那の間には将来結ばれようという約束があったのかもしれません。しかし、脱藩後に江戸で再開した龍馬の心は彼女から離れてしまっていた。一途な佐那は彼をあきらめ切れずに想いを寄せる。定吉先生からの薦めもあり龍馬も押し切られて結納だけは交わしたのではないかと。ドラマや小説でよく取られるこの展開が事実だったのではと想像してしまうわけです。

正妻であるお龍は「女学雑誌」の佐那の記事を読んだであろうと思われます。彼女の回想記では嫉妬心むき出しで佐那を痛烈に批判しています。その件は後日の機会に譲るとして、注目すべき部分は龍馬が佐那のことを「好かぬから取り合わなかった」とお龍に話していたという点です。彼女の回想はあまりに作り話しすぎてはいるものの、それを単に嫉妬心から出ただけの話として片付けて果たしていいものでしょうか。

婚約者佐那を情熱的に想っていたにもかかわらず、お龍とあっさり結婚してしまったと考えるよりも、佐那から加尾へ恋心が移ったものの、その成就出来ぬ恋を引きずっていた時にお龍と出会ったと考える方が人間龍馬を考える上では自然ではないでかと私は思えます。

写真が現存しているお龍も美貌の持主ですし、伊達宇和島藩の記録にあるよう佐那も美人であったようです。天下の坂本龍馬もその部分では普通の男性と同じだったというわけで、記事を読んでなんだかホッとしてしまいました。

注1)この手紙が書かれた日付には文久3年6月14日と8月14日の二つの説があります。菊地氏は6月で宮地氏は8月をとっています。「日本の洗濯」の手紙が6月29日であることから日付が前後すると龍馬の加尾への想いが微妙に変化しそうです。一般的には8月説が多くとられているようです。

コメント

  1. まる より:

    こんばんは。
    龍馬伝を見ているので、それぞれの女優さんの顔と重なってしまいますが、とてもロマンチックですね。
    さなさんは墓石まで龍馬の妻と銘打っているとのこと、ほんとに好きだったんですね~。幕末のロマンス、何だかしみじみします(^^)

  2. Yubarimelon より:

    まるさん、コメントありがとうございます。
    私もblogを書きながら貫地谷しほりさんを思い浮かべていました。映像の力ってすごいですね。

  3. fuzzy より:

    龍馬は、加尾も佐那もお龍も、総て愛したのでしょう、心多き男だったと思います、現代でも多くの女性を同時に愛せる男はいますから、その点は別段普通の男なのです。龍馬を慕い続けた佐那は、愛しい女性と感じます。でも男は最後は一緒に居て疲れない女性と一緒になるケースが多いです、佐那は龍馬を慕い過ぎ、自由奔放な龍馬には重たい、そんな気がします。

  4. Yubarimelon より:

    fuzzyさん、コメントありがとうございます。
    いつもご訪問していただきありがとうございます。

  5. sig より:

    こんにちは。
    男ごころと女ごころは、いつの時代も変わらないものでしょうか。
    テレビは見ていないのですが、楽しく読ませていただきました。

  6. Yubarimelon より:

    niceを入れていただいた皆さん、ありがとうございます。

  7. Yubarimelon より:

    sigさん、コメントありがとうございます。
    千葉佐那のお墓を訪れる人が今年に入って急増しているそうです。龍馬を慕う一途な想いが、現代人の私達には美しく感じられるというのが理由ではないでしょうか。

error: Content is protected !!