松姫 娘の病気治癒を祈る信玄公の願文が発見される

 武田信玄が富士山の神仏に娘の病気の治癒を祈ったとされる直筆の願文が、16日までに、富士吉田市歴史民俗博物館に寄贈された。(2010.4.17山梨日日新聞)

 松姫は戦国大名武田信玄の五女で、永禄4年(1561)9月頃の生まれとされている。同母の兄に武田家と命運を共にした仁科盛信、妹には上杉景勝正室となった菊姫がおり、幼少時に不可侵の証として織田信長の嫡男信忠との婚約が成立した。

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『発見された信玄公の願文』

松姫も時代に翻弄された戦国大名家の多くの姫君の中の一人であります。政略結婚であったとはいえ、一度も会った事のない未来の夫織田信忠との間には手紙のやり取りがあり、心の交流が出来ていたとのことです。しかし、元亀3年(1572)、上洛する父信玄と徳川家康との間で三方ヶ原の合戦が起こり、信長が家康に援軍を派遣したことで二人の婚約は解消されるに至ってしまいました。

時は移り、武田家を継いだ勝頼は天正10年(1582)に信長軍に攻められ、天目山にて露と消えています。縁るべき家を失い、前途に不安を抱えていた松姫の下に信忠からあらためて結婚の申し込みがありました。自家を滅ぼした織田家へ嫁ぐことへの躊躇や家臣からの反対も当然あったことでしょう。婚約解消後10年という時が過ぎてはいましたが、姫は結婚を決意したのであろうと思われます。(ストレートに愛の力だけとはいいません、お家の再興や離散している家臣達のためにも織田家の傘の下に入る事も選択肢であったのではと考えられます)戦国の敵方同士の家柄でありながら、二人の絆はそれほどに固く結ばれていたのだと想像できます。諸説ありますが、天正10年6月信忠の下に向かっていた松姫に、本能寺の変で彼が亡くなったという報せが届きます。

信忠と松姫は結局一度も出会う事は出来なかったのでしょうか?一説には清洲会議で秀吉が担ぎ出した信忠の長男三法師(織田信秀)は、松姫との間に出来た子ではないかとも云われています。事の真偽はともかく、そんな噂が出るぐらいですから二人は出会っていたのだと信じたいものです。姫はその年に出家し、名を信松尼と改めます。そして、生涯にわたり武田家と信忠の冥福を祈り続けたそうです。信松尼の信の一字は父信玄公から取ったもの、あるいは婚約者であった信忠から取ったものとも。おそらく両方の意味もあったかもしれませんけど、ここまで書いてくれば言わずもがなでありましょう。

信松尼はその後、北条、徳川の庇護の下で暮らし、天正18年に信松院を創建、全ての女性の幸せのために請願したということです。八王子市にあるこの寺院には現在も女性の参拝客が絶えないそうです。

コメント

  1. まる より:

    なんという歴史のロマン。。
    抗えない時代のうねりに巻き込まれ、
    ただただ幸せになりたかった女性のささやかな願いも
    儚い夢に終わってしまったのですねTT
    2人は出会っていたものと、私も信じたいです。

  2. Yubarimelon より:

    まるさん、コメントありがとうございます。
    真実であるかどうかを知る事と同様に、想像をめぐらすのも歴史の楽しさだと私も思います。

  3. ノリパ より:

    戦国時代の女性は、政争の道具になったり大変だったんですね。
    そんな中にもなにがしかのロマンはあるんですね。信松尼と言う名は、
    いいですね。女性の視点からみた歴史、というのも。想像が膨らみますね。

  4. Yubarimelon より:

    ノリパさん、コメントありがとうございます。
    戦国時代のお姫様は特に大変だったのではないでしょうか。個人が優先される私達の感覚すると、本当に気の毒な感じがします。

  5. an-kazu より:

    先日、松姫峠を走行しました(^^);

  6. Yubarimelon より:

    an-kazuさん、コメントありがとうございます。
    松姫が織田軍から逃れるため、通ったことに由来にしている峠だと聞いています。 命名された地元の人達にとって、姫の存在が如何に大切なものであったかを知ることが出来ますね。

  7. Yubarimelon より:

    niceを入れていただいた皆さん、ありがとうございます。

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