伊達騒動 原田甲斐の肖像画が初公開される

寛文11年(1671)に起きた仙台藩最大の政争、伊達騒動を特集した企画展が宮城県登米市登米町の登米懐古館で開かれている。呼び物の一つは騒動にかかわった国老原田甲斐を描いた肖像画で今回初公開した。23日まで。(2010.5.7河北新報)

寛文事件当事者の一人である原田甲斐宗輔は、仙台藩の歴史的視点からは悪逆非道の奸臣として認識されている。事件後、甲斐の首は家臣達の手で密かに菩提寺である船岡の東陽寺に埋葬され、同寺は大老酒井忠清邸(東京都千代田区大手町)で甲斐を斬った柴田外記の菩提寺大光寺と入れ替わるように、現在の宮城県登米市米谷へ移っている。

今回公開されたこの肖像画は一体いつ描かれたものなのか、作者であるという茂庭幽荘とは。歴史の影に隠された真実に陽の目が当たる可能性はあるのだろうか?

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『手前の掛軸が原田甲斐の肖像画』

甲斐が船岡の領主であった当時、東陽寺に寄進した梵鐘がありました。寺が米谷に移る際、甲斐の首をこの鐘に隠して運んだとされています。そして、本堂の裏手には埋葬した場所の目印にと銀杏が植えられました。鐘は太平洋戦争の金属回収があったため現在のものは複製ですが、銀杏は今も大きく聳えています。

延宝5年(1677)甲斐7回忌の際、旧臣ら139人が東陽寺に集まったそうです。逆臣の法要であることから人目を憚ったものであるのは云うまでもありませんが、この時甲斐を供養する人達が集まったという事実を後世に残すために連判状が作られ、寺の屋根裏に隠し置かれたということです。それが大正12年に発見され現存しています。

少なくとも旧臣の子孫や登米市周辺の人々の中には、逆臣原田甲斐に対して供養を施すべき人物であったという認識が根付いていることは、法要が現在も行われている事実から明らかであります。勿論、それだけでフィクションのような甲斐忠臣説を肯定するつもりはありません。しかし、単純に甲斐を仙台藩分割を目論んでいた伊達兵部の一派としてだけ片付けるには、何か複雑な事情があった事は間違いないという気にはさせてくれます。

それにしても、肖像画の作者だとされる茂庭幽荘とはどんな人物なのでしょうか。もし松山茂庭家に連綿する者であるなら、非常に想像をかき立てる事実がありそうな気がします。原田・茂庭の両家は親しいという以上に親密な間柄であるといえます。甲斐の母慶月院は茂庭綱元の娘(伊達政宗のご落胤とも)であり、嫡男帯刀宗誠の妻は良元の次に茂庭家当主となった定元の娘なのです。

茂庭良元と定元は反兵部派でした。すなわち政治的に甲斐とは敵対していたわけです。甲斐と周防が藩の存亡を賭けて相対する立場でありながら、子供同士の結婚を約束したりするのは外聞を憚るという以上に奇妙な感じがします。仮に幽荘が松山茂庭の一族であるのなら、逆臣である原田甲斐の肖像画を描くという行為には大いに意味があるに違いありません。仙台藩分割阻止のため、忠臣説を裏付ける小説のような甲斐と周防の間に、本当に密約が存在していたのでしょうか。

史実とフィクションの線引きをしたつもりでも、何か煮えきれない感も残ってしまう伊達騒動ですが、真実が明らかになるとくれば話は別です。茂庭幽荘については現在調査中とのこと。期待しすぎは良くありませんが、寛文事件についての新事実が判明するような進展が見られたなら、あらためて事件を見直したいと思っています。

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コメント

  1. Yubarimelon より:

    niceを入れていただいた皆さん、ありがとうございます。

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