新田義貞 倒幕軍挙兵の際に使用された軍旗を公開

中世の武将・新田義貞をまつる群馬県太田市の新田神社の社宝「義貞の軍旗」がこのほど、1940年以来、70年ぶりに顕彰会の人たちに公開された。(2010.6.8asahi.com)

元弘3年(1333)5月8日早朝上野国新田荘棟梁小太郎義貞は、後醍醐天皇からの要請に応えて鎌倉幕府倒幕の挙兵をした。当初は寡勢に過ぎなかったが、足利尊氏の嫡男千寿王の軍と合流するとその数は数万騎となった。同月15日分倍河原(現東京都府中市)において、北条泰家率いる鎌倉軍と対戦。緒戦では敗退させられたが、翌日未明に勝利に驕った幕府軍へ奇襲をかけ、これを敗走させた。

この勝利に勢いを得た新田軍は、周辺の豪族を援軍に加えながら鎌倉に攻め込んだ。そして、5月22日(1333.7.4)執権北条高時を自害に追い込み、幕府を滅亡させている。都で足利尊氏が六波羅を陥落させる等の要因はあったものの、挙兵からわずか15日目の大勝利であった。

20100604-608560-1-N.jpg

『70年振りに公開された新田義貞の軍旗』

現代において新田義貞は評価を見直すべきに値する武将の一人だと思います。物語の太平記の中では、足利尊氏や楠木正成の圧倒的な存在感の前に影の薄い人物として描かれたことが、そのまま義貞のイメージになっているという事実、これは非常に残念なことであります。

吉川英治著「私本太平記」でも、尊氏などはそれまでの太平記とは異なる大胆な解釈で描かれていたにもかかわらず、こと義貞に関してはあまり代わり映えしない印象の薄い人物に思えました。登場場面はわずかであるのに、北畠顕家のその鮮烈さは今もはっきりと思い出すことが出来るのですが。

古典の「太平記」の中で、「義貞は一族共々五月八日朝生品明神前で旗上げし後醍醐天皇からの綸旨を披いて拝礼三度の後笠懸野へ打って出た」とあります。今回公開された軍旗は鎌倉を攻め落とした後は地元に戻って代々大切にされてきたものなのかもしれません。70年に一度しか公開されないとなれば、生涯に一度目に出来るか出来ないかという貴重な品であることは間違いありません。

コメント

  1. まる より:

    こんにちは。
    70年振りに公開とは、えらく長いこと人の目に触れなかったのですね。
    時代を越えて数百年も現存するとは
    地元でどれだけ大切にされているかの証ですね。

  2. fuzzy より:

    鎌倉街道に面した私の街も「貞義公駒繋ぎの松」が在るなど新田義貞公に思いを馳せます、小説・ドラマではやや凡庸なイメージで描かれていることが多く義貞公ですが、私は好きな武将です。

  3. Yubarimelon より:

    fuzzyさん、コメントありがとうございます。
    この先、義貞のイメージがアップする切欠がある事を私も願っています。

  4. Yubarimelon より:

    まるさん、コメントありがとうございます。
    新田荘の地名は現在も残っているので、やはり地元の方々にとって義貞は英雄であることに間違いないようです。

  5. an-kazu より:

    稲村ヶ崎の太刀・・・
    だけが鮮明になりすぎている感が残念です(^^);

  6. Yubarimelon より:

    an-kazuさん、コメントありがとうございます。
    稲村ヶ崎に太刀を投げ入れるエピソードは、明治に発行された旧国立銀行券にも印刷されていたそうなので知名度に関してはかなり高いのではと思われます。

error: Content is protected !!