桑折宗長 発見された政宗の書状が多賀城市に寄贈される

宮城県多賀城市は、伊達政宗の書状などの文書98点を7月1日に市文化財として指定することを決めた。文書はいずれも伊達家家臣の武将天童氏の25代当主天童勲さん(68)=多賀城市=方で保管していた「天童家文書」の一部で、3月に同市に寄贈されていた。(2010.6.26河北新報)

仙台伊達藩桑折家は四代伊達政依から支流となった一門である。伊達家発祥の地である桑折(現福島県伊達郡桑折町)を領し桑折姓を名乗るようになった。

この地は鎌倉幕府の御家人であった常陸入道念西が頼朝の奥州征伐の際の恩賞として与えられたものであり、念西は以降伊達姓を名乗るようになった。天文17年(1548年)十五代伊達晴宗公が米沢に居城を移すまで、伊達家は桑折西山城を拠点にその勢力を拡大し続けた。

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『多賀城市に寄贈された政宗の書状』

天正19年(1591)2月、葛西大崎一揆の黒幕という疑いを晴らすため上洛した政宗が、秀吉にその潔白を納得させたであろう後、重臣の桑折宗長に送った手紙が興味深いです。もともと、疑惑が浮上したのは家臣の讒言からであった事もあり、政宗にとって非常に危機的状況だったろうと思われます。

口八丁の政宗に対して秀吉はその主張を認めてはいますが、実際は黒幕に間違いないと見ていたようです。その時点では有罪とするよりも政宗に一揆を鎮圧させ、早急に天下平定を成し遂げる方を最優先していたに違いないからです。一揆平定後に葛西・大崎氏の領地を与える代わり、先祖伝来の伊達の地を取り上げて、その力を削いでいるのが何よりの証拠です。

話を桑折宗長に戻しますと、上述したように桑折家は家中では有力重臣の家柄であり、自身は政宗の父輝宗の代から執政を務めてきた程の人物です。政宗にとってはいわば口喧しいお爺さんのような存在であったはずです。執政への職務上の義務もありましょうが、地元で心配しているだろう宗長を安心させようとする政宗の気持ちが手紙から伝わってきます。

余談にはなりますが、宗長の子宗資は政宗の命で原田家を継いでいます。寛文事件の甲斐宗輔は宗長の孫に当たるわけです。

さて寄贈された書状ですが、多賀城市にある東北歴史博物館の所蔵となるのでしょうか。ここは陸奥国府跡が目の前にあり、また「奥の細道」で芭蕉が見学できて涙した壺碑も近くにあります。歴史散策にはもってこいの場所と云えましょう。もっとも、私が博物館を訪れたのは現在のように新しくリニュアルされる以前でしたので、機会があればぜひ再度見学したいと思っています。

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コメント

  1. Yubarimelon より:

    niceを入れていただいた皆さん、ありがとうございます。

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