お夏と清十郎 物語として語り継がれる悲劇の二人を供養する

江戸時代の悲恋物語の主人公を供養する「第62回お夏・清十郎まつり」(神戸新聞社など後援)が9日、姫路市野里慶雲寺前町の慶雲寺とその周辺で開かれた。(2010.8.10神戸新聞)

井原西鶴の『姿姫路清十郎物語』を含むオムニバス浮世草子『好色五人女』が出版されたのは貞享三年(1686)であり、近松門左衛門の浄瑠璃『五十年忌歌念仏』お夏と清十郎の物語が初演されたのは宝永四年(1707)である。それらは共に万治二年(1659)に播州姫路城城下で実際に起きた事件を下地に創作された物語だ。

元禄を代表する二人の作家が取り上げたこの物語に、庶民は熱狂的な関心を寄せた。それは作品への素晴らしい脚色があったのは云うまでもないが、同時に当時の厳しい社会制度を越えた悲劇の中に、人間の本質を見出したからではないだろうか。

兵庫県姫路市の姫路城を北に少し行った場所にある和菓子屋さんで購入した最中が、実は清十郎の名を冠した商品であった事を思い出したのは随分後になってからのことでした。このお店のそばにある慶雲禅寺にはお夏と清十郎を供養した比翼塚があります。

比翼塚というの心中をした相愛の男女を供養した塚のことだそうで、数は多くありませんが全国に点在しているとのこと。その一つであるお夏と清十郎の塚はいつ誰が建立したのかは判っていません。誰知らずのうちに二つの石が積み重ねられたのが始まりだったというのです。二人は心中をしたわけではありませんが、身分制度により結ばれることなく悲しい結末をむかえたという点では、同じと考えられたのは当然であったといえるでしょう。

当時、近松の『曽根崎心中』や『心中天網島』などのヒットが影響して、身分制により結ばれることのない男女の心中が急増していました。幕府はこれを問題視して享保八年(1723)に心中ものの芝居の上演禁止令を出しています。

お夏と清十郎の物語に拍手した当時の人達は、人と人との結びつきが身分で阻害されるという社会が如何に間違っているかにすでに気付いていたはずです。だからこそ、その悲劇の結末を制度へ当てつけたような男女の心中に対して心から共感したのではないでしょうか。施政者である幕府も心中者が増えるからという理由だけで芝居の上演を禁止したわけではないはずです。幕府が考える社会の根幹を揺るがしかねない身分制度の崩壊の種を、早々に摘んでしまわねばというのが最大の理由であったと思われます。

現代では結ばれない男女の心中というのは中々考えにくいですが、それでも江戸時代と同様に施政への不満が別の形を持って庶民にむかえられるというのは変わりないように思えます。

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コメント

  1. Yubarimelon より:

    niceを入れていただいた皆さん、ありがとうございました。

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