荘厳寺の逆さ門

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仙台市青葉区片平町高等裁判所周辺はかつて仙台藩重臣の屋敷街でした。国老原田甲斐宗輔邸もその一角にありましたが、寛文事件後には破却されてしまいました。屋敷の裏手すぐに広瀬川が流れていましたので、壊された家屋の廃材は全て川に捨てられたとのことです。しかし、屋敷の薬医門のみは北山新坂の荘厳寺に移築されたと伝えられてきました。

逆臣となった屋敷の門であることから、この門は部材を逆さに組んであり、これが「逆さ門」と云われる所以となっています。また、男子は悉く死罪となった原田家を荘厳寺で弔い、移築した門を今日まで保存してきたことに原田甲斐忠臣説を結びつける人もいるようです。

青葉区新坂町荘厳寺は寺社が多く集まる北山と呼ばれる門前町にあります。もともと、この地区は政宗公が仙台を開府した当初は人の手が入らない野原でした。戦国時代より伊達家では、一族の葬儀を行う際、その遺骸を死後すぐに埋葬し、四十九日法要まで空の棺桶を野に置き葬礼を行うという独自の風習を持っていました。そして、葬儀後に葬礼用具一切を焼き、生じた灰を土で盛り上げ周囲を土塁で築き、これを灰塚と呼び祀ったのです。しかし、五代藩主吉村公は過去の遺風としてこれを廃止し、代わりに灰塚を祀るための寺院が置かれることになったのです。これが北山に寺社が多く集まる所以となっているのです。

逆さ門の前には案内板があり、 これに「三間一戸の薬医門で切妻造本瓦葺の堂々たる門である。江戸時代初期の上級武家門として数少ない遺構である。」とあります。確かに、目の前に建つこの山門は、一万石以上の大名級家臣が居並ぶ伊達家の威勢を感じずにはいられない立派な造りであります。平成5、6年にこの門の解体修理を行った際、門柱の上下と左右の部品が反対に組まれていた事が実証されました。やはり、原田邸から移築した門であることは間違いないようです。

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それにしても、部材の上下左右を逆さに組んだ門というのは、全国にあまり例がないようです。鳥取県米子市大神山神社の神門はかんぬきが外側に付いていることから「逆さ門」と呼ばれています。また、日光東照宮の陽明門の柱の一本は「逆柱」と呼ばれています。これは古来より伝わる、未完成にしておくことで建物の延命を図る一種の厄除けだということです。荘厳寺の逆さ門のように、罪人の屋敷門を再利用し、「悪から善に転ずる」という意味の逆さ門はとても珍しいと思えます。

門をくぐると荘厳寺境内には 「逆さ門弔い地蔵」という三体のお地蔵様が置かれています。これも原田家の霊を弔うために置かれているとのこと。(私が見学した日は丁度お葬式が行われていたので、境内の見学は遠慮しました)甲斐宗輔が逆臣であったか、忠臣であったかということはともかく、幼くして死罪となった子供達の霊は弔われるべきだというのが、見学した私の何よりの感想でした。

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『荘厳寺のある新坂通りは昔ながらのとても狭い道路です。そのため界隈は一方通行が多く、車よりは公共交通機関の利用をお勧めします』

ここ最近、伊達騒動に関する文献や史料に、目を通す機会が増えています。もちろん、調べたい件があるためなのですが、自分の中で事件への見方も以前とは少し変わってきたように思えます。特に原田甲斐関しては、大老酒井邸の一件のみで、伊達騒動全ての罪を被ってしまったようにしか思えなくなっています。そういう意味では大罪人である、と同時に被害者でもあった気がしてならないわけです。この件につきましては、いずれ考えがまとまった機会に書きたいとは思っています。

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コメント

  1. Yubarimelon より:

    niceを入れていただいた皆さん、ありがとうございます。

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