古内志摩義如 酒井雅楽頭邸より唯一人生還した仙台藩国老を偲ぶ

「ー古内どのはなにか知っておられるのかもしれない、また、なにも知ってはおられないかもしれない、ただ一つ、仙台六十二万石が安泰であるという事実、兵部宗勝が逐われて、伊達家の禍根が絶たれたという事実だけは現にわれわれの眼で見ることができます

山本周五郎著 『樅ノ木は残った』より

新たな史実の解明や発見でもない限り、改めて事件について検証するつもりはありませんでした。しかし、寛文事件において、大老酒井忠清邸に召還された仙台藩重臣五人の中で、唯一人の生存者であり、事件の目撃者でもある古内志摩が病で亡くなるまでの二年間に思いを寄せることは、以前から常々考えていたことです。

原田甲斐忠臣説が取り上げられる根拠の一つに、古内志摩が事件の真相に関して沈黙したとする仮説を例に挙げる人は少なくありません。ですが、残念な事に秘された事実が本当にあったのかどうかさえ、それを知る手立ては現時点で何もないのが実情なのです。確かに、そこに真実が隠されていたと推測することは大切ではありますが、この件に関して私個人は、志摩が仙台六十二万石安泰のために書き記した藩主への諫言書、遺書にいたる多くの書状の中にこそ、紛れない真実があるのではと思うのです。

『仙台市泉区古内にある賀茂神社。 元禄八年に四代藩主綱村公が塩竃神社より志摩の屋敷跡に遷宮した。 古内家墓所のある慈眼寺跡は通りをへだてた向い側にある。近年、泉区住宅街の拡張とアウトレットモール出店などのため、近くを走るバイパスの交通量は増加の一途を辿っているが、神社の境内は別次元の静けさを保っている』 (1)

寛文十一年三月廿七日の大老酒井雅楽頭邸での凶事以後、古内志摩は宇和島藩藩主伊達遠江守の屋敷に留め置かれていたが、四月十五日に仙台藩藩邸への帰参許可が幕府老中久世大和守より告げられた。藩主伊達綱村公は志摩の無事を大いに喜び、当日酉の下刻に陸奥守は直々に盃を賜ったという。

同年十月、仙台へ帰国。それに先立って、品川下屋敷(現東京都品川区東大井4丁目)にて前藩主綱宗公より三月以来の労苦をねぎらわれ、魚、引き茶、時服を下賜された。

十二月二日、国老柴田中務と共に五ヶ条の誓文を作成し、これを評定所に張り出している。この誓文は去る寛文八年三月に志摩が同じ役職の勤め方に対し不明瞭、不公正のないよう国老原田甲斐と柴田外記に連署を持ちかけたものとほぼ同内容と考えられている。この時は伊達兵部とその一派の分断を計る狙いだったが、甲斐一人の同意を得られずに反故となってしまった経緯がある。だが、志摩は将来の新たなる禍根を鑑み、三年の月日を経ながらも自らの企図を実現することにしたわけです。(2)

『慈眼寺は明治年間に焼失したため現在は檀家のお墓と小さなお堂があるだけです。 古内志摩の墓は案内板の通り山道を上がっていった場所にありますが、墓所までの道は整備されてなく、坂道は滑りやすくなっています』

志摩は病を患ったことで自らの余命を悟ります。そして、寛文十三年五月廿日、綱村公へ藩主の心得として、十一ヶ条の諫言書をしたためています。身を慎むことの道理、政に関する要点、そして要職に就けるべき人物の評価等、若き主君と藩の行末のみが志摩の心残りであることを行間に滲ませる内容となっています。また、幕府申次役島田出雲守守政へは三通を、六月九日に同役の国老柴田中務宗意、小梁川修理宗敬、大條監物宗快へそれぞれ一通の遺書を書き残しています。

志摩が主君や後事を託した人達にしたためた遺書からは、悪人と位置付けた人物らへの評価が特に強い印象を受けます。寛文事件において、兵部、甲斐ら罪状の重い人物への処罰は厳重を極めましたが、逆に罪の小さかった家臣達への処分は然したるものではありませんでした。志摩はこの事をかなり気にとめていたようで、それらの人物達を常に警戒していたようです。その中には国老経験者もおり、藩政への復帰を信頼できる上記の三人を志摩が強く推すことで婉曲に阻止していたことが伺えます。(3)

また、島田出雲守へは十日を置いて遺書を三通も送っていることから、やはり藩安泰のため、幕府への配慮は志摩にとって、安心して死ぬことが出来ない憂いの一つだったに違いありません。出雲守は事件当時、大老邸で志摩と共に甲斐に止めを刺した人物と伝わっています。事件において志摩の労苦を知り尽くしているゆえ、その遺書を通して仙台藩を想う気持ちを痛い程受け止めてくれたようです。そして、それらを全て幕府老中に披見し、その死を哀悼しています。

『古内志州藤原義如と没年である寛文十三年の文字が読み取れる志摩の墓。 戒名は涼樹院殿前州刺史一源曹性居士』

大條監物は六月十日付で、遺書に対する返事を古内家に出しています。その中では医師の治療で容態が幾分上向いてきたことを目出度いとし、快方に向かう事を願っています。しかし、その願い虚しく二日後の十二日に志摩は永眠しました。享年四十三歳。

あくまで想像にすぎませんが、命の燃え尽きるその最後の瞬間まで志摩の心を占めていたのは、やはり仙台六十二万石の安泰だけだったのではと思います。寛文六年に国老就任以降、騒動の難局に常に向合い、前代未聞といえる大老邸での惨劇の後処理、事件以降は藩内の沈静化と将来再び同じ過ちを繰り返さないようにと力を尽くしたわけです。騒動を通して、志摩の中でどれ程の不安や心痛というマイナス作用が働いたかは想像を絶するものがあります。それでも、藩の危機を回避することこそ、課せられた使命であることに疑いを挟む余地など一片もなかったことでしょう。それが、徳川幕藩体制という時代の中での、家臣としての通常の在り方だったわけですから。(4)

今、私達が政宗公の礎のままこの仙台という街を眺めることが出来るのは、伊達家に対して忠義を尽くした家臣達のおかげだと言い切ってよいのではないでしょうか。もちろん、志摩義如はその代表的な一人であることは言うまでもありません。そして、私が彼のためにせいぜい出来る事といえば、墓石に手を合わせ、「あなたが命をかけて守り抜いた仙台は、今も続いていますよ」、と感謝するぐらいしかないわけです。

(1)志摩義如には子がいなかったため、片倉景長の弟を継嗣とし、古内左門義憲を名乗った。志摩の死後、義憲は延寳元年七月加美郡宮崎(現宮城県加美郡加美町)に新たに三千二百八十余石を領し、永代着座二番座の家格となっている。なお、四代藩主綱基公が綱村に改名したのは延寳五年(1677)でありますが、当blogでは全て綱村と表記しています。

(2)寛文十年十二月、伊達安芸宗重が藩の窮状を憂い、幕府に提出した上訴文は伊達兵部宗勝、目付渡辺金兵衛義俊、今村善太夫安長らの藩政への専横を細かく上申したものである。しかし、その一派である原田甲斐宗輔に関しては、志摩の誓文署名拒否の一件のみが示されているだけであった。伊達騒動において悪名を一身に受けた甲斐の評価に対して、ここは疑問を挟む余地のある部分といえる。

(3)これらの遺書の他に柴田中務(外記朝意の嫡男、船岡領主 寛文事件後、国老に就任)へは、伊達兵部、原田甲斐、渡辺金兵衛らを古悪人、事件後の奸悪を新悪人として数十人の姓名を挙げ、それらの行状を細かく記した長文を幼君の心得のために申して置くようにと贈っている。「伊達騒動実録」の著者大槻文彦はその件に関して、当時の事情が伺えるとしながらも、志摩に要注意人物と評された家臣の姓名を現在に至る子孫の方々に配慮して、書中では省略している。

(4)「伊達騒動」を執筆した作家の中には、当時の仙台藩にはこうした難局に対して十分な手を打てるだけの人物が、原田甲斐を含め全くいなかったと評する方もいます。確かに、仙台藩では実力ある人材を登用する仕置家老という制度を採用しておらず、門閥だけで藩政を執行していた事は否定しようがありません。しかし、幕府が認可した伊達兵部の後見政治に対して、果たして執政達だけでどこまで強権を発動することができたであろうか、疑問の残るところでもあります。騒動の病巣は、政宗公が敷いた知行制にあり、大名並に一万石を有する一門一家の重臣達がお家よりも自らの領地の利益を優先したことにあるのは周知の事実です。更に国老には兵部派の原田甲斐がいましたし、奥山大学罷免以降は兵部のスパイである渡辺金兵衛らの力が増したことで不可能ではあったでしょうが、仮に家格が下の国老達が兵部を訴えれば、逆に反兵部派である一門一家の反撥を招く可能性は十分にあったわけです。(寛文事件では一門の伊達安芸が上訴したのでこの問題は回避された)志摩の計画した兵部とその下に連なる人物達の分断を明文化し、誓紙を取るぐらいが関の山だったのではと思われます。

参考文献

「伊達騒動実録」大槻文彦、「先代萩実話」斎藤荘次郎、「樅ノ木は残った」山本周五郎、「列藩騒動録」海音寺潮五郎

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