松平兵部大輔斉宜 尾張領内での無礼討ちは史実かフィクションか?

映画で暴君と描かれた15代明石藩主松平斉宣(なりこと)の直筆とされる掛け軸が地元明石市に伝わり、関係者は、文字から伝わる性格を映画とは違い「穏やか」と擁護している。(2010.9.25神戸新聞)

公開中の映画「十三人の刺客」で、暴君として描かれる松平斉韶(なりつぐ)は実在の播磨国明石藩第七代藩主である。だが、稲垣吾郎さんが演じる映画のモデルとなったのは斉韶公ではなく、十一代将軍徳川家斉の子で、その養子となった八代藩主斉宜(なりこと)のほうだ。(1)

斉宜公は参勤交代中に尾張藩領内で、行列を横切った三歳の幼児を無礼討にしてしまった。この領民に対する一方的な処置に対して、尾張藩では以後明石藩の領内通行を禁止とした。更に、幼児の父親である猟師の源内は、弘化元年(1844)に木曽路で斉宜公の駕籠を狙撃し、公は落命したとの言伝えも残っている。

明石侯旅行の状を見しに、駕廻従士の輩、皆脇差一刀のみ帯び、半てん股引にて野服の体なり。 その陪僕は槍馬の後より、各その主の刀を革袋に納れてかつぎ群れ行く                                                                    松浦静山「甲子夜話」

「三田村鳶魚全集1 帝国大学赤門由来」に、甲子夜話から引用した上記のエピソードに関する記述を読むことが出来ます。尾張藩から通行禁止令を受けた明石藩の大名行列は、野良着のような服装に着替えて領内を通過したというのですが、この記事には幼児を無礼討ちした事件の日時などの詳細に関しては、一切記載されていません。そのため、事件が史実なのか、作り話なのか、現在も正確なことは不明のままです。また、後日談として斉宜公が死亡したのは、父親である猟師源内の狙撃によると三田村鳶魚も書いています。

「甲子夜話」は平戸藩九代藩主松浦清が隠居後に書き出し、その死である天保十二年(1841)まで書き続けられた随筆集です。ゆえに、斉宜公が鬼籍に入った弘化元年(1844)の事を静山公が書ける訳ありません。源内に狙撃され落命したというのは、誰かが後日追記したものであることは明白なわけです。ただ、現在も幾つかの伝承や史跡が残されている事から、この事件が全くの作り話であるとは言いきれないようです。

愛知県尾西市にある「孝子佐吾平遭難遺跡」の碑は、天保年間(1830~44)に斉宜公が参勤交代で江戸へ向かう途中、暴れ馬を抑えようとして行列を横切った萩原宿の馬方佐吾平を、無礼討ちにしたと伝わる街道沿いに建てられています。佐吾平は目の見えない母に良く尽くした息子だったので、その死を悼んだ人達によって、小さな祠が建てられたそうです(現在の石碑は昭和30年に建て替えられたもの)。この話にも実は似たような後日談があり、領民を一方的に殺された尾張藩では、明石藩に対して通行を喪服での夜間限定とし、更にこの事件が原因で明石藩は領地を半分没収されてしまったと伝えられています。残念ながら、これも史実として立証出来るものは何もないようですし、天保年間に明石藩の領地が半減したという事実もないようです。ただ、この地方では事件を題材にした浪曲や芝居が今も伝承されていることから、明石藩と尾張藩との間で、何かしらのトラブルがあったのは確かなようです。

もう一つは、静岡県三島市にある言成地蔵尊に伝わる伝承です。貞享4年(1687)、尾張浪人で猟師源内のひとり娘小菊が、誤って明石藩松平若狭守直明の行列を横切ってしまいました。小菊は本陣に連れて行かれましたが、玉沢の上人のとりなしで殿様も一度は許す気になったそうです。ところが、上人がうっかり小菊の父親が元尾張の住人であることを話してしまい、尾張嫌いの殿様は再び頭に血が上ってしまったというのです。「殿様の言い成りになりますから、どうか許して下さい」と小菊が懇願したにもかかわらず、殿様は娘を手討ちしてしまったそうです。父親の源内は箱根の山中で殿様の駕籠を鉄砲で狙いましたが、駕籠には殿様が乗っておらず、仇を討てずと自殺してしまったとのこと。界隈の人が小菊のためにお地蔵さんを作り、彼女の最後の言葉から言成地蔵と呼ばれるようになったそうです。

さて、「甲子夜話」、「孝子佐吾平遭難遺跡」、「言成地蔵尊」の記事と伝承には幾つかの共通点がある事は一目瞭然です。それは明石藩藩主の弱者への無礼討ち、父親の仇討ち、尾張藩の明石藩への報復などです。特に甲子夜話と言成地蔵尊の伝承は似たような話というよりは、時期と場所が異なるだけで、どうも同じ話としか受け取り様がありません。しかも、子供の父親が尾張の人で猟師、名前も同じ源内というのは話の出所が一緒だと考える方が自然です。

「言成地蔵尊」の暴君松平直明公は明石藩初代藩主で、藩内の荒地開発に尽力し、正建神として岩岡神社に合祀されたほどの人物です。それゆえ、俄かにこの話自体は信じがたいのですが、仮に民間伝承が157年という永い時間を掛けて全国に広がる過程で、斉宜侯の暴君の噂が重なり、甲子夜話の話に変化して伝わったとは考えられないでしょうか?あるいは、尾張藩が明石藩の名を貶めるため、甲子夜話の話を下に時と場所を変えた話として、言成地蔵尊の伝承を作り出したと考えるには無理があるでしょうか?三島も尾張同様に東海道の宿場町ですから、そこを通る旅人や他藩の行列がその言い伝えを知って明石藩を良く思うわけはありません。

上記した甲子夜話の記述、明石藩士が尾張領内を通行する際に規制を受けていたというのが事実であるなら、やはり斉宜侯が幼子や佐吾平のような弱者を無礼討にしたという事件が実際にあったのかもしれません。尾張藩としては領内の通行を規制するだけに留まらず、他藩でも同様の事件が起きないよう、明石藩藩主の傍若さ、しいては斉宜公の悪評を街道の情報網を使い全国に喧伝したのではないかと、個人的には思えるわけです。

一方では、こんな言伝えもありました。斉宜公が藩主になった時、明石藩は二万石の加増を受け八万石となりました。将軍の子が大名になると、御三家への挨拶が慣例になっているそうなのですが、公が尾張徳川家に挨拶に行った際、正門を通れるのは十万石以上の大名に限るとされ、側門を通らねばならないという屈辱を受けたというのです。この記事の出所も明石藩の史料(明石藩略史?)という以外、詳細は判りませんでしたが、斉宜公も藩主になった当初から、尾張藩に対しては胸につかえるものがあったのは間違いないようです。だからといって、尾張領内で無礼討ちしていいわけは決してありません。

天保十五年(弘化に改元)、斉宜公は突如急逝してしまいました。公式には病によるとなっていますが、詳しい事は判っていません。明石藩藩主に就任してわずか四年の在位でした。史実を裏付けることは出来ませんが、鉄砲で撃たれて亡くなった可能性もなくはありません。また、あまりに突然で謎めいていたことが、猟師源内の仇討ちという後日談に話が膨らんでしまった可能性もあります。暴君の突然の死となれば、庶民の噂話に尾ひれがつくのは古今変わりはありません。

私は斉宜公を擁護するわけではありませんが、人というのはどんなに聖人君主と云われていても、時には短気を起こすこともあるでしょう。しかし、藩のトップである君主が間違い、しかもそれが理不尽な弱者への殺人ともなれば、そのイメージダウンは公個人ばかりでなく藩全体へも計り知れないものがあるはずです。もちろん吉良上野介の例もあるように、今後地元で暴君ではなかったという史料の発見でもあれば、現在の認識が変わる可能性もないわけではありません。

参考にさせていただいたサイト

月刊い~ち 孝行息子伝説 その真相は?

言成地蔵 三島市

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