おけいの子守唄 会津の開拓移民団入植跡地を米国自然保護団体が購入

日本女性で初めて農業移民として米国に渡った会津若松出身の「おけい」らの入植地「若松コロニー」(カリフォルニア州)の跡地を、米自然保護団体アメリカン・リバー・コンサーバンシー(ARC)が保存のため13日までに買い取った。(2010.11.14福島民報)

幕末の会津藩において、軍事顧問となったプロシア人ヘンリー・スネル(平松武兵衛)は、戊辰戦争後の明治二年(1869)五月、松平容保公の許可を得て会津藩士家族とスネルの日本人妻を含む約四十人と共にゴールドラッシュに沸くカリフォルニア州へ渡米した。彼らは日本茶と絹などの栽培を行う農業移民として、同州ゴールドヒルに開拓団として入植しその地を若松コロニーと名付けた。

しかし、日本と異なる気候から茶の栽培は失敗、更に資金繰りの悪化とはやり病によりコロニーは早々に行き詰ってしまった。1871年にスネルは金策のため開拓者達を現地に残し、日本に向かったがその後消息を絶ってしまった。

故国を離れたアメリカで病死したおけいの物語は、近年マスコミにも取り上げられ全国的に浸透しているようです。おけいはヘンリー・スネルが日本人妻との間にもうけた二人の子供の守役をしていたといわれています。しかし、会津若松市材木町に再現されているスネル邸近くに住んでいた娘で、渡米当時は17歳だったという以外の詳細は判っていません。ゴールドヒルにあるおけいの墓が大正14年に発見され、アメリカの日系社会の中でその名が知れ渡り、やがて日本に伝わる経緯についてはwebでも詳しく紹介されていますので、そちらを参考にして下さい。

それにしても、17歳の女の子が親元を離れ、どうして外国への開拓団に参加する気になどなったのだろう。スネル夫妻の強い薦めもあったろうが、やはり、戦時下を通して付き添っていた子供に情が移ったというのが一番の理由ではないか。自分が付いていなければ、というおけいなりの覚悟があったのではと想像できる。コロニーの解散、子供達との別離、そして病死という不幸な結末ではあったが、彼女の短い人生はその後も末永く語られていくことになったわけだ。今回の記事を読んで、海外で日本人の歴史が大切にされ末永く保護されることになった事について、最近の世情の中では素直に嬉しく思える出来事であろう。

一方金策のため、日本に向い消息を絶ったというヘンリーだが、一説には暗殺されたとも伝わっている。彼の弟エドワルドは新潟で商社の支店を開いており、戊辰戦争時に会津藩などの武器購入を請け負っていた。宇田川武久編「鉄砲伝来の日本史」(吉川弘文館)の中に、明治四年、エドワルドが新潟港陥落の際、官軍が略奪した商品の損害約12万5千ドルの償却訴訟を起こし、明治六年に4万ドルを政府より受け取ったという記事を読むことが出来ます。記録にはないが、ヘンリーが仮に日本に戻っていたのであれば、弟に会っていたのは間違いない。エドワルドも明治七年に再来日した後、東京居留地四番(現東京都築地)に居を構え、商業に従事したということです。兄ヘンリーがエドワルドの下で仕事をしたのであれ、そうでないのであれ、言葉もままならないアメリカで帰りを待つおけいら開拓団のために、お金を工面する努力だけはしていたと想像したいものです。そう考えるのが、せめてもおけいへの供養になるのではと私は思います。

余談にはなりますが、ゴールドヒルのあるカリフォルニア州エルドラド郡は埼玉県蕨市と1975年に姉妹都市となっています。当初、会津若松市に提携を持ちかけたそうですが、断られたという経緯があるそうです。しかし、蕨市への親睦使節は来日する度、おけいの墓参に当市を訪れているということです。(昭和32年アメリカにあるものと同じ墓石が会津若松市背炙山に建立され、その場所は黄金丘と名づけられた)

ねんねん  おころり  異国の丘で おけい、十七  あゝ  なぜ泣いた 

  お国なまりのさ  子守唄 唄いながらもさ  なぜ泣いた 

 ねんねん   おころり  浮雲、追って おけい、しょんぼり  あゝ どこ見てた 

  夢でなければよ 帰れない 恋し会津のさ 空見てた 

 ねんねん  おころり  唄って泣いて おけい   いとしや   あゝ  何待った

    春が来たのによ  まだ来ない 故郷のたよりをさ ただ待った (おけいの子守唄 清水みのる作詞)

コメント

  1. Yubarimelon より:

    niceを入れていただいた皆さん、ありがとうございました。

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