国定忠治 義侠の徒かお尋ね者か、イベント中止を契機に歴史的再評価を

ばくち打ちか、窮民救済の義侠(ぎきょう)の徒か――。今年で生誕200年を迎えた江戸時代の侠客(きょうかく)・国定忠治を巡り、出生地の群馬県伊勢崎市で議論が起こっている。5月に予定していた記念イベントは、市側が待ったをかけて中止となる一方、観光関係者や郷土史家からは街おこしにつなげようと再評価の声も広がっている。(2010.11.22 YomiuriOnline)

国定忠治こと本名長岡忠次郎は文化七年頃(1810)の生まれで、上州一帯を縄張りとした博徒の親分である。嘉永三年(1850)八月、関東取締出役(八州廻り)に捕縛され江戸小伝馬町の牢獄に入れられた。同年十二月、大戸関所(現群馬県東吾妻町)破りの罪により現地で磔刑に処されている。享年四十一歳。

講談や映画などで弱きを助け、不正に挑むアウトローとして、一時期ブームにまでなった国定忠治。歴史上の人物にはありがちな事だが、後世に作られたイメージが史実の像を塗りつぶしてしまい、今日に至るというケースはこの人物も例外ではない。仮に、やくざ者としてだけの一面が浮き彫りにされているのなら、天保の大飢饉で農民を救済したという逸話を一層掘り下げる必要は、今だからこそあるのではないだろうか。

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『幕末・明治の南画家田崎早雲による国定忠治 早雲は忠治を直に目撃した事があったという』

国定忠治を史実として見るためには、同時代に上州の代官として赴任していた羽倉簡堂(外記)が執筆した「劇盗忠二小伝(赤城録)」によるのが近道のようです。羽倉簡堂は旗本の家柄の出で、関東の代官を務めた後、老中水野忠邦により勘定吟味役に抜擢され、川路聖謨、江川英龍らとともに天保の改革を推進させた有能な官僚の一人です。

天保八年(1837)、羽倉外記は代官として飢饉で荒んだ下総、下野、上野を巡視する旅に出ています。この時の旅の記録「済菑録」の中で『土人云く、山中賊有り、忠二と曰う、党を結ぶこと数十、客冬来、屡孤貧を賑す、嗚呼我輩は民の父母たり、而劇盗をして飢凍を救しむ、之を聞き赧汗浹背して縫入るべき地無きを恨むのみ』と。本来なら、施政者であるべき自分が民に手を差し伸べなければならないのに、無法者がそれを行っている事を知った外記は衝撃を受け、忠治という人物に非常な関心を寄せることになります。(1)

天保の改革での失脚以降、幕政に再び参画することを拒む程の硬骨漢でもある羽倉外記を、赤面背汗させたのが国定忠治だったのです。役人と無法者という相対する立場にいた二人は直接会った事はなかったでしょう。しかし、幕府から派遣された代官という、限られた範囲の中でしか貧民救済の手を差し伸べられない外記にとって、己の盗区(縄張り)の豪商達から手広く施金を集め、大々的に援助する忠治に対してどんな思いであったことでしょう。幕政の中心人物であった官僚が一介の博徒の史伝を書き上げるくらいですから、余程のことだったに違いありません。悔しさや憎さも然ることながら、忠治を一人の人物として認めていたのではと思われます。そうして出来上がった著書が、美談に多少の尾ひれがついたとしても、全くのつくり話であろうはずがないわけです。

今回の記事にあるよう、歴史上の人物の評価が二分するという事には全く問題はありません。むしろ、それを契機に多くの人が忠治を理解する切欠になることの方が、大切だと思えるからです。問題なのは、それまで忠治を支持して来た人達が活動を停止してしまったということです。詳しい事情は知りませんが、もし自分達まで日陰者のように考えるのでしたら、それこそ一番の誤りだということ気づいてほしいものです。県民の関心が集まっている今こそ、積極的に忠治の真実をアピールする絶好の機会なのだと私は思います。

参考文献 「国定忠治」高橋敏

(1)「済菑録」の菑は本来なら四字冠であるが、旧字体であったので三字冠を代わりとした。

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