近松勘六行重 吉良邸討入りで使用したと伝わる槍を子孫が奉納

赤穂義士の一人、近松勘六が討ち入りの際に使用したと伝わる槍などがこのほど、赤穂大石神社(赤穂市上仮屋)に奉納された。討ち入りに使われた武器の多くは散逸しており、義士の遺品などを多く収める同神社でも珍しいという。(2010.12.08神戸新聞)

近松勘六行重(寛文九年~元禄十六)は赤穂四十七士の一人である。同じく義士である奥田貞右衛門行高は実の弟だ。勘六は元禄十五年十二月十四日の吉良邸討入りにおいて、左兵衛義周の小姓山吉新八郎との斬り合いで足を負傷し、泉岳寺引き上げの際には籠を用いている。

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忠臣蔵の話題が取り上げられるこの時期、一年が押し迫ったという感じにさせてくれます。毎年の事とはいえ、日本人の血に深く記憶されてきた歴史的事件なのだとつくづく思うわけです。

映画や芝居の吉良邸内での戦闘シーンで、池に落ちてしまう義士が近松勘六であります。この時二刀流を使い、橋の上で勇猛果敢に立ち回るのは吉良家家臣清水一学ですが、これはあくまでフィクションの設定のようです。上杉家大熊弥一右衛門という人物が、討入り直後に調査、作成した報告書「大河原文書」の中で、上記した山吉新八郎に関して以下のように書いています。『内ヘ入リ候エバ敵三人ニテ戦イ 一人ヲ池ノ内へ切リ伏セ 一人ハ縁際ニテ切伏候トコロヲ後ヨリ槍ニテ突キ候トコロヲ白刃トリヨケ候処又一人来リ(略)』

この史料を裏付けるのが細川家江戸屋敷にて、大石良雄をはじめとする十七士の接判役であった堀内勝重がまとめた「堀内伝右衛門覚書」、その中にある「夜討ノ節泉水二コロビ入水申サレ候由 其節相手立チ帰リ候ワバ危キ目に遭ワレベク候(略)」という勘六の証言であります。すなわち、勘六に傷を負わせたのは、吉良側で最も奮戦した山吉新八郎であったのが史実のようです。

勘六には子がいなかったため、吉良邸まで付いて来てしまった従者甚三郎を、養子として近松家を継がせたということです。記事にある直系の子孫の方というのは、おそらくこの甚三郎に繋がる方なのではないでしょうか。

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