最後の仇討ち 武士の忠義が美談から犯罪へ

討ち入りといえば赤穂浪士だが、もうひとつ事件史に残る師走の遺恨沙汰がある。明治13(1880)年のきょう、日本最後のあだ討ちがあった。
厳密には、明治政府が出したあだ討ち禁止令後初。旧秋月藩士の臼井六郎という青年が、幕末混乱期に暗殺された両親の無念を晴らす。相手は同じ藩士の一瀬直久で、判事だったから因果だ。(2010.12.17愛媛新聞)

復讐禁止令、すなわち仇討ち禁止令が時の司法卿江藤新平によって発布されたのは明治六年(1867)二月七日である。これまで日本の慣行とされ、時に美化されてきた敵討ちは、以降犯罪と位置づけられたのだ。これは明治政府が日本を近代国家として整備する以上、犯罪を公的機関により処罰する公刑罰権の確立が急務であったことと、不平等条約改正のため、欧米列強に対して旧時代の野蛮な慣行を改める必要性があったからだともいう。

最後の仇討ちとされる臼井六郎事件は、明治十三年(1880)に起きました。幕末、福岡藩黒田家の支藩秋月藩(現福岡県朝倉市 五万石)で幕府寄りの公武合体派であった臼井亘理は、明治元年五月に同藩勤皇派の若者で構成される干城隊に妻、娘と共に惨殺されました。一命を取りとめた長男六郎は藩に上訴しますが、王政復古という時代の流れから干城隊は無罪、一方父亘理は国賊扱いの上、減禄処分にされてしまいました。

家族に直接手を下したのが、干城隊の一瀬直久であることを突き止めた六郎は、すでに仇討ち禁止令が出ていたにもかかわらず、東京でその機会を狙っていました。そして明治十三年十二月十七日、旧秋月藩主黒田邸(現東京都銀座六丁目)において本懐を遂げたのです。彼は事件後、自ら警察に出頭し、裁判では終身刑の判決を受けました。(十年後の大日本帝国憲法発布大赦で仮釈放)

禁止令が施行されて、すでに7年が経過していましたが、人々は元禄赤穂事件同様、臼井六郎の仇討ちを美談として受け止めたのです。徳川幕藩体制の280年間に限っても、仇討ちは必要な手続きを執れば、合法とされてきました。また、その本懐を遂げるまでの道のりは非常に厳しく、叶わなかった事例も数多くあったとされています。それゆえ、見事に仇を討ち遂げたことに対して、誰もが惜しみない拍手を送ってきたのです。時代は明治となり、敵討ちが禁止されても、臼井六郎事件を美談として受け止めた人達は、かつての旧時代を懐かしむというよりも、日本人の心に深く刻まれてきた賛辞の記憶が呼び覚まされたからなのではと思えるのです。

現代に生きる私達の周囲で、実際に仇討ちが行われる事は常識的に考え難いものですが、それでもこの血生臭い言葉に対して、どこかそれを美化して考えようとする気持ちは、当時の人達と同じ様に心の片隅に持っている気がします。それは、曽我兄弟や赤穂義士の物語に心が熱くされ、涙する、今も昔も変わらず支持し続けているのが、何よりの証拠ではないでしょうか。

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コメント

  1. Yubarimelon より:

    ご訪問いただいた皆さん、niceを入れていただいた皆さん、ありがとうございました。
    本年もよろしくお願いします。

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