ハーマン号事件 戊辰戦争の最中遭難した熊本藩兵乗船のアメリカ気船を引揚げる計画を発表

明治維新直後、旧幕府軍と戦うため官軍がチャーターし、東京・高輪沖を出航後、房総沖で沈没した黒船の発掘調査が来年六月、日本水中考古学調査会と米テキサス農工大によって行われる。蒸気機関や兵器、軍用金などが引き揚げられれば、当時の日米交流などを物語る貴重な歴史的資料となるものと期待される。(2011.02.07東京新聞)

奥羽越列藩同盟を離脱した津軽藩が、榎本武揚率いる旧幕府軍と戦闘を開始したのは明治元年十月二十二日(1868.12.05)夜、峠下村(現北海道亀田郡七飯町)である。箱館府、松前、備後福山、越前大野の藩兵と合わせた1450程の兵力であったが、夜間であった事と実戦を重ねてきた旧幕軍に対し、抵抗虚しく退却を余儀なくされた。結局、津軽藩兵は同月二十四日、五稜郭防衛を断念した清水谷公考府知事と共に青森へ脱出している。

津軽藩藩主津軽承昭公は、実兄である熊本藩藩主細川韶邦公に援軍を要請。これに応えるかたちで、江戸藩邸にあった番頭・寺尾九郎左衛門を筆頭に熊本藩兵一大隊350人が、横浜で借り受けた米蒸気外輪船ハーマン号に乗込み高輪を出航したのは、明治二年一月二日であった。

翌日未明、房総半島上総夷隅郡川津村(現千葉県勝浦市)沖合いにて、ハーマン号は暴風により座礁、大破。この事故により、熊本藩士205名、アメリカ人乗組員22名が犠牲となってしまった。

元々、幕末の熊本藩は開国派の横井小楠や、尊攘の志士宮部鼎蔵ら優れた人材を輩出しましたが、その内実は一枚岩ではありませんでした。藩政改革は行ったものの、保守派の藩上層部が政局を読みきれないまま維新を迎えてしまったといえます。そのため、津軽藩からの援軍要請は、藩主の実弟に応えると同時に、明治新政府に対しての態度を明確にするという意味もあったのではないでしょうか。

さて、2010年12月26日付くまにちコムに『「ハーマン号事件」の絵巻物が発見される』という記事が掲載されたのは記憶に新しいところです。事件は細川藩の正史に記録が見られるくらいであったため、年々記憶する人も少なくなっていたようです。その一方、事故の起きた千葉県勝浦市津慶寺には官軍塚という犠牲者を弔う碑があり、ここでは毎年慰霊祭も行われてるということです。

ハーマン号を引揚げるプロジェクトチームによれば、実際に船を引揚げるには数年を要するとのこと。歴史の中に埋もれようとしている事件に再び陽の目が当たるわけですから、これはぜひ成功してほしいものです。私個人としては、軍用金や財宝うんぬんよりも、無念の死を遂げた犠牲者達の想いを後世に残すことの方にこそ、はるかに意義があるように思います。

参考にさせていただいたサイト

「ハーマン号事件」絵巻物発見 明治2年、熊本藩兵ら200人超死亡(2010.12.26熊本日日新聞)

肥後細川藩拾遺 http://www.shinshindoh.com/hermann.html

コメント

  1. Yubarimelon より:

    niceを入れていただいた皆さん、ありがとうございました。

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