種崎浜の悲劇 処刑された長宗我部旧臣73名の慰霊祭が初めて行われる

長宗我部氏の遺臣が山内一豊によって処刑されたと伝えられる種崎事件の慰霊祭が6日、高知市種崎で初めて開かれ、約200人が73人の霊を弔った。(2011.03.07高知新聞)

慶長六年(1603)三月朔日、土佐国へ山内家入国の祝いとして、浦戸内桂浜にて相撲大会が催された。国中の上下の者が集うが、この時見物の中から一揆徒党73名が捕らえられ、種崎の渚で磔刑に処された。(「山内家史料 第一代一豊公紀」より要約)

ドラマや小説などでは、一領具足による反乱の首謀者を一網打尽にするため、相撲に出場した屈強な者達を、一豊公が無差別に銃殺するという事件として取り扱われている。だが、史料によると、予め指名手配されていた者達を検分の後逮捕し、桂浜から種崎に移送して、刑を執行したというのが事実のようだ。もっとも、処罰された者達の遺族や村民はこれに恐れをなし、一時山中に身を隠してしまったそうで、公は家臣を遣わし慰め、村民への処罰はないと呼びかけた処、騒ぎは次第に収まったという。

この事件は、上記史料の「御武功記」「旧記」「御国年代記」の中に見ることが出来ます。しかし、いずれも大きな事件として書かれているものはなく、前年に起きた浦戸一揆の残党を捕らえるためとする補足的な記述がほとんどです。おそらく、この事件を大々的に取り上げたのは司馬遼太郎著「功名が辻」だったのではないでしょうか。

物語は徳川家にあらぬ噂を立てられかねないと、苦慮した一豊公が反乱分子を根絶やしにする策としてこの種崎の相撲大会を催しますが、結果として正妻千代との確執を決定的なものにしてしまうというあらすじです。(千代は長宗我部旧臣を力で抑えるのではなく、山内家臣として召抱えるよう進言していた) 種崎事件により、それ以降一揆が収まったような書かれ方をし、物語は終幕します。ですが、史実はその二年後に起きた大規模な滝山一揆の後、武力による抵抗は影を潜めることになります。

新領主である一豊公が土佐に足を下ろした当時こそ、地元の人達の不信は明らかだったことでしょう。しかし、現代に至っては、山内家の存在は高知の方々にとってなくてはならないものであることは云うまでもありません。400年以上経っての慰霊祭、今後この事件に一層の歴史的注目が当ってゆくのではないでしょうか。

*この記事は先月3月に投稿しようと書き進めていたものです。しかし、その直後の11日に起きた東北地方太平洋沖地震により、記事内容が公開にそぐわないと考えまして保留しておいたものです。ひと月程経ち落着きを見せ始めましたが、現在も海岸近くは被災した自動車等が放置されたままになっています。何より、今も悲しい思いを背負い、困難な状況に置かれています人達のことを考えますと心痛に耐えません。改めましてここに、被災した皆様にお見舞いを申し上げます。そして、一日でも早く皆様の生活が以前に近い形に戻りますことを願っています。

*文章の転載は厳禁とします。

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