宝暦治水事件 美濃の人々に受け継がれた薩摩藩士達の尊い犠牲

第41回南日本招待高校野球に出場する大垣日大高校野球部(岐阜県大垣市)の部員ら22人が13日、鹿児島市城山町の薩摩義士の碑を訪れた。「宝暦治水で郷土を守ってくれた恩人に感謝し、不屈不撓(ふとう)の精神を学びたい」と献花、線香を手向けた。(2011.5.14南日本新聞)

宝暦三年(1753)、幕府は薩摩藩主島津重年公に美濃と尾張にまたがる木曽三川の治水普請を命じた。濃尾平野を流れるこれら木曽川、長良川、揖斐川は分流と合流を繰り返す、入り組んだ地形であったため、洪水による被害が多発していた。

薩藩は家老平田靱負正輔を総奉行とし、総勢1000名もの人員を現地に派遣、宝暦四~五年に掛けて治水工事を行った。工事は困難を極めたが、完成した堤を検分した幕府役人は唐にもこれ程の堰はないと賞賛したという。しかし、幕府への抗議として自害した藩士と病死した者も含め100名近い犠牲を出してしまったことと、藩の決済を仰がず予算を上回る借金をした責任を取って、平田靱負も故郷に帰ることなく美濃大牧で切腹した。

『現在平田靱負の屋敷跡は平田公園として整備されています。公園内には靱負の銅像が建立されています。作者は城山の西郷隆盛像を製作した安藤照の子息で、渋谷駅前二代目忠犬ハチ公像を製作された安藤士』

幕末の薩摩藩にとって、倒幕の原動力となったのが関ヶ原の役と、この宝暦の治水普請であったとする説は良く聞かれます。関ヶ原の役後、果たして島津家が徳川家に怨みを持っていたかどうかはまた別の機会に譲るとして、宝暦治水事件においては、犠牲となった薩摩藩士達のほとんどが、現場監督だった幕府役人達の嫌がらせに対し、その屈辱に耐え切れなかった故の自害だったと伝わっています。これが幕府への悪意となって、薩摩人に連綿とし、倒幕への力として蓄えられていったというのであれば、納得は出来ます。

当時、遠国から遥々普請に来た薩摩藩士達に対して、地元農民達が感謝のしるしとして草鞋や食事を提供しようとしたところ、幕府役人はこれらの行為には必ず代金を取るよう布れを出したそうです。おそらく、下級役人ゆえ、あまりに厳しくこの法令を守らせたのだろうと思います。しまいには農民らが処罰されるようなってしまい、薩摩藩士達は幕府が自分達に対する悪意からこのような布告を出したに違いないと考えるようになったのは当然でしょう。元来、薩摩武士とは、侮辱を受けた相手を斬って切腹で責任を取るという気風を色濃く受け継いでいます。普請に派遣され自害した藩士達も抗議としての死というより、侮辱に耐えられず死を選んでしまったのだと考える方が自然です。(注1)

しかし、藩では幕府への配慮から、これら自害者を「腰のものにて怪我して相果て候」として処理してしまいました。更に、100名もの犠牲者が出たにもかかわらず、藩士達が幕府への悪意を募らせるのを防ぐために藩内への公表を行わなかったようです。島津家の正史である「島津国史」にも、この治水普請に関して、幕府が副奉行の伊集院十蔵ら十三人に治水の功を授けたが、平田正輔は旅先で死んだため授からなかったという形式めいた記述しか残されてません。そのため、薩摩人でさえこの事件を知っている者がほとんどいなかったらしいのです。

もっとも、工事が行われた美濃の人達の感謝の気持ちは代々受け継がれ、今日では慰霊碑や平田靱負を含む犠牲となった藩士達を祭神に治水神社も建立されていますし、直木賞を受賞した杉本苑子著「孤愁の岸」によって、多くの人が薩摩義士の歴史を知ることが出来るようになりました。記事にある薩摩義士の碑を訪れた大垣日大ナインも、薩摩と美濃の関わりを後世に伝えていってくれるはずです。

さて、当時の薩摩人達は木曽三川の治水普請の一件をほとんど知らなかった。となれば、宝暦治水事件が幕末の薩摩藩にとって、倒幕運動の原動力になったというのには疑問を挟む余地がありそうです。いや、むしろ事件を知る者がいなかったのだから、原動力になり得るはずがないのでは。鹿児島出身の歴史作家海音寺潮五郎も、民間の地元の著述でこの事件に関する書物を自分は読んだことがないとし、中学生の頃に岐阜から来た人の講演を聞いて初めて知ったと書いているほどです。いつ、どこで、誰が、この説を取上げるようになったのか調べる必要がありそうです。

『鹿児島市城山の麓にある薩摩義士の墓。一番上にあるのが平田靱負の墓石』

注1:この法令を幕府側から見ると別の解釈が成り立ちます。農民が際限なく食事などを提供していれば、やがて薩摩藩士もこれを当然の権利と考えるようになり、終には農民らが強要されかねない事態も起こるかもしれない。布告はこれを未然に防ぐためのものであったようです。実際、幕府としても、この布れが出されることにより、両者に少なからず抑制の気持ちが働いてくれれば、ある程度のやり取りは目をつむるつもりだったのでしょう。ところが、上述した通り地方へ派遣される下級官僚というのはご多分に洩れず、法を厳格に守ろうとする帰来があるため、このような不幸な結果を招いてしまったわけです。

*写真とコメントを追加しました。(2011.12.9)

コメント

  1. sig より:

    こんにちは。
    木曽三川公園を作る件に関する仕事でこの場所を見、「孤愁の岸」を読んでいきさつを知りました。現地の堤に立って展望すると感慨無量でした。その後行っていないので、今はどうなっているのでしょうか。
    いつもながらすばらしい記述ですね。

  2. ノリパ より:

    岐阜県で生まれ育ったそれがしは、小学校のころ教えられ
    ました。薩摩藩士には隠されていたんですね。初めて知り
    ました。

  3. Yubarimelon より:

    sigさん、コメントをありがとうございます。
    私ももう少しこの件に関して掘り下げたいと思い、現在「孤愁の岸」をはじめ関連書籍を読んでいます。上記した疑問点に関して、何かしらblogを書く機会があれば良いなと思っています。

  4. Yubarimelon より:

    ノリパさん、コメントをありがとうございます。
    少し言葉が足らなかったようなので、補足させていただきます。
    現地でどのような事が起きたかに関して知っていたのは、藩上層部と現地に派遣された藩士達だけだったのではと思っています。
    無謀な治水普請によって財政が大きく傾いた件で、幕府に対して禍根を残した可能性は十分にあるかもしれません。

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