奥羽越列藩同盟 仙台藩上層部失策の犠牲でもあった使節を慰霊する

戊辰戦争(1868~69年)の際、奥羽越列藩同盟を離脱しようとした秋田藩の説得のため秋田に派遣され、勤皇派の秋田藩士に暗殺された仙台藩士12人の慰霊祭が、命日に当たる4日、秋田市寺内の西来院で営まれた。(2011.7.5河北新報)

慶応4年7月4日夜、秋田久保田藩の動静を探る事と、奥羽鎮撫総督府九条道孝公を米沢に移すため、秋田に派遣されていた仙台藩使節志茂又左衛門一行11人を、秋田藩砲術所浪士富山虎之助、遠山直太郎ら22人が宿所としていた茶町扇ノ丁幸野治右衛門方を襲撃、殺害し、仙台藩士達の首を城下五丁目橋に晒した。

秋田藩の藩論を勤皇に統一するための犠牲となってしまった使節ではあったが、一方で仙台藩首席奉行但木土佐成行をはじめとする藩上層部の度重なる失策が、使節一行を死に追いやったとするのも、あながち言い過ぎではあるまい。

仙台ノ使節志茂又左衛門等ノ一行ヲ斬リ殺シ、断ジテ列藩トノ連鎖ヲ絶ツコトナリ (仙台戊辰史)

仙台藩側の記録には、総督府下参謀大山格之助(綱吉)が秋田藩勤皇派を扇動し、使節を殺害させた張本人であるとしています。これは確かに誤った記述ではありません。ですが、志茂又左衛門らが秋田に派遣された一番の理由は、藩論が佐幕と勤皇の間で揺れ動いてる秋田藩に滞留している九条道孝総督を、列藩同盟に連れ戻すことだったのは間違いないはずです。(1)

そもそも、仙台にいた九条総督を秋田に送り出すという失態を演じてしまったのが、奥羽越列藩同盟最高責任者但木土佐なのです。大山に宛てた「奥羽皆敵ト見テ逆撃之大策ニ致度候」の密書を書いた、総督府もう一人の下参謀世良修蔵が4月20日仙台藩藩士に暗殺されて以降、九条公は仙台領内で、半ば孤立した状態にありました。このため、江戸の新政府は公を救出するため、佐賀、小倉藩兵を急遽仙台へ派遣。軍務局副頭取玉虫左太夫は佐賀、小倉藩兵の上陸を反対しましたが、但木土佐はあろう事か、仙台において総督と佐賀藩士前山精一郎を面会までさせてしまいました。(2)

仮にも新政府の使者である世良を暗殺したことで、会津・庄内藩を和平により救済するという東北諸藩の同盟は、新政府軍と武力で対決する列藩同盟へと一変せざるを得なくなってしまいました。それゆえ、九条総督を仙台に留めて置く事は、新政府に対して、交渉の強力なカードと成りえたはずだったのです。

仙台から盛岡を経由して、九条総督が久保田城に入ったのが、7月1日。下参謀大山は藩主佐竹義堯公に同盟を抜け、新政府側に付くよう説得を続けていましたが、秋田藩でも以前佐幕派(同盟派)の勢いは衰えていませんでした。特に義堯公は、総督府の随員の中に、かつて勘定奉行大縄織衛を斬って脱藩した高瀬権平がいた事に激怒していたのです。高瀬は秋田藩勤皇派の精神的支柱である国学者平田篤胤の婿で、入城時には馬上から藩士達を見下ろすという横柄な振る舞いをし、これが佐幕派と勤皇派の斬り合いにまで発展しそうな状況となっていました。

このような一触即発の秋田藩に、警護もいない無防備の仙台藩使節志茂又左衛門らが入ったのは、九条総督と時を同じくする7月1日であります。藩論が容易にまとまらないと見ていた大山にとって、これは千載一遇の機会到来であったのです。

同日夜、同盟派を斬り、藩論を統一させようと集まっていた砲術所の志士達に、大山は「諸君ガ志茂又左衛門ヲ使節トシテ見ルハ誤リ也 彼其名ハ使節ナレドモ其実ハ刺客也 」(仙台戊辰史) と斬るべき相手は使節一行であると扇動したのです。

暗殺計画があることを知った秋田藩上層部は大山に対して、計画の中止を申し入れましたが、逆に薩長に仙台使節の暗殺計画がある証拠を挙げてみよ、と突き上げられてしまいます。表立って、勤皇派を煽っているのが、総督府の大山であるとは云えないのが秋田藩の現状なわけです。言葉に詰まった首脳部は沈黙せざるを得ませんでした。すなわち、結果的に使節一行の暗殺を認める形になってしまったのです。

惨殺された志茂ら6人は賊徒の張り紙と共に梟首され、逃れた5人も捕らえられ後日斬首されました。その罪状は、一行の荷物の中に火薬を詰めた竹筒があり、総督九条道孝、副総督沢為量、参謀醍醐忠敬の三卿の旅宿を焼き討ちする計画だったという不条理極まりないものでありました。

「仙台藩殉難小史」には、正使である又左衛門が秋田藩首脳に対して「同盟列藩ハ鎮撫使三卿ヲ仙台二迎ヒ 且薩長兵ヲ国外二退カシメヨ。然ラズンバ列藩ノ大軍 四境ヨリ討入ルベク貴藩宜シクソノ利害得失ヲ審按シ 確答アルベシ 」と話したとあります。実はこの時仙台藩は、庄内藩を援護するため、梁川播磨に5小隊を付けて新庄に派遣していました。11日に佐賀・肥前藩に急襲され、はじめて秋田で異変があったことに気づいたのです。

なぜ、仙台藩は使節に警護を付けず、秋田へ派遣してしまったのでしょうか?平時であれば、大藩の使者を斬るなどいうことはありえなかったでしょうが、この時白河口、棚倉では新政府軍との間で激しい戦闘がすでに行われていたのです。繰り返しになりますが、藩上層部の現状認識の甘さが、このような悲劇を生んでしまったと云わざるを得ないわけです。

世良修蔵を斬ったことで、新政府軍と武力対決に踏み切った奥羽越列藩同盟と同様に、仙台藩使節を殺害したことで否応無く新政府軍の尖兵となった秋田藩でしたが、北からは庄内藩、南から盛岡藩に攻め込まれ、藩地の2/3が戦場と化してしまいました。9月に会津藩が降伏したことで、ようやく奥羽諸藩を領外に追い出せたものの、論功行賞も薄く、多大な犠牲を払うだけの結果となってしまったのです。

一方の但木土佐は、列藩同盟の東北諸藩による独立国建設のため、輪王寺宮を迎えた7月初旬、次のような歌を詠んでいます。

宮の御心に代わりて詠める 薄紅葉夜半の嵐に吹き散りて 頼む木の間に雨ぞふりつつ

 大いなる構想を夢見ながらも、奥羽の地に戦端を開いてしまった彼の心の内には、すでにその終末が見えていたのかもしれません。(3)

(1)秋田藩の呼称は、明治4年1月13日に久保田藩から改称されたものであります。同年7月14日の廃藩置県により秋田県と改められたため、実質半年しか存在していません。ですが、当blogでは地理的な認識のし易さから、秋田藩と表記しています。

(2)佐賀・小倉藩兵330人が仙台藩領東名浜(現宮城県東松島市東名)に上陸したのは4月28日。同月22日に白石城にて軍事同盟、奥羽越列藩同盟が締結されています。この時点で、同盟が新政府軍といつでも戦端を開けることを考えれば、玉虫の主張は正論と言える。しかし、仙台藩上層部には佐賀、小倉藩は薩長とは異なるという考えで、現状認識が著しく欠如していた。

(3)記事中には12名を慰霊となっていますが、南部藩の高橋惣助も巻き添えになって死亡しています。しかし、彼の名前は仙台藩殉難碑には刻まれていません。

コメント

  1. okin-02 より:

    こんにちは・
    何時も訪問 有難う御座います、
    マイピクチャーも変え・気分も新たに1歩を踏み出す事が出来ました、
    今後ともお付き合い程・宜しくお願い致します。

  2. Yubarimelon より:

    niceを入れていただいた皆さん、、ご訪問いただいた皆さん、ありがとうございました。

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