女たちの伊達騒動

新寺小路界隈

仙台駅西口五橋1丁目交差点からJR高架下を抜け、仙塩地区産業道路に繋がる新寺通りと交差する宮沢根白石線の界隈、いわゆる新寺小路は藩政時代から寺社が多く集まる場所です。藩祖政宗公が慶長六年(1601)に仙台城下町割りに際し、東の守り(鬼門)としてこの地区に幾つかの寺院を配置し、更に寛永十四年(1637)に始まった第1次城下拡張によって、当時寺町であった寺小路から一部の寺院が移されて来ました。以降、二つの寺町は元寺小路、新寺小路と呼ばれるようになったわけです。(1)

JR仙石線で一つ目の榴ヶ岡駅を降りると、中心街の喧騒さが信じられない静かな佇まいを見せてくれます。交通の利便性もあり、気軽に行き来が出来る新寺小路を、伊達騒動関連の史跡を中心に歴史散策してみました。

三沢初子

駅から仙台サンプラザの前を南へ歩くと政岡墓所があります。この墓所には政岡のモデルとされる仙台藩三代藩主伊達綱宗公の正室三沢初子、二代藩主忠宗公正室振姫、四代藩主綱村公正室仙姫の三人の墓があります。 (2)

政岡というのは、歌舞伎「伽羅先代萩」に登場する亀千代丸の乳母のことです。伊達騒動の名が世間に広く知れ渡ったのは、この芝居と小説、大河ドラマ「樅ノ木は残った」というフィクションであったことは云うまでもありません。詳しいことは後日機会があれば書くつもりですが、政岡は近年の研究では三沢初子がモデルではなく、あくまで創作された人物であったろうとされています。にもかかわらず、現在も歴とした仙台藩藩主正室の墓所をフィクションのキャラクターの名前で案内しているところが、この史跡の面白いところだと思います。(3)

墓所の向かいには案内所があり、ここで墓を管理している孝勝寺住持から説明を聞くことも出来るそうなのです。今回もそうでしたが、私が訪ねる時は休日に当たっていてこの件に関して質問できずにいます。ですが、一般に浸透している政岡の墓とすることで、この墓所を案内しやすかったであろうことは容易に想像できます。なお、普段は扉が閉まっているので見学出来ませんが、隣接する公園から中の様子を見ることは可能です。

孝勝院振姫

政岡墓所を後にし西へ歩きますと、上記した宮沢根白石線の大通りがあり、この向い側にある日蓮宗東北本山孝勝寺へと向います。孝勝寺の名は振姫の法号「孝勝院殿秀岸日訊大姉」からきているとおり、藩主正室の帰依により、当時大いに 隆盛を誇ったようです。仙台城城下絵図などを見ますと、現在よりも遥かに広大な寺域を有していたことが判ります。政岡墓所もそうですが、現在の仙台サンプラザまでも含める広さだったのです。

この孝勝寺には、綱村公が生母三沢初子の死後、元禄八年(1695)に建立した釈迦堂が現存しています。元はこの場所ではなく宮城野の榴ヶ岡に建立されたのですが、昭和四十八年に宮城県図書館の建設に伴い移設されたものであります。綱村公が母の護持仏であった釈迦像を安置し、その功徳を領民にも及ぼそうとしたのがそもそもの経緯でありましたが、その隣接地には多くの枝垂桜を植え、芝居の興行を許可し、領民憩いの場としても提供したのです。これが現在の榴ヶ岡公園発祥の地となったわけです。

孝勝寺の釈迦堂の前には亀千代丸を抱く三沢初子の像があります。私は政岡のモデルが三沢初子ではないと書きましたが、この像を見ていると、政岡が実子千松を犠牲にしてまで、忠義と情愛で亀千代丸を守った場面と重なるものを感じます。生涯に渡り生母の愛を深く受け止めた綱村公は、初子の弟信濃宗直を一門に列し、竹に雀の伊達家家紋の使用を許し、これに報いています。(4)

注釈その一

(1)仙台藩の当時、元寺小路は現在の勾当台公園から広瀬通を経て鉄砲町に至る城下随一の幹線道路でした。定禅寺通や光禅寺通、花京院など、今使われている地名は当時同名の寺院がこの界隈にあったことに由来しています。

(2)忠宗公が三沢初子を綱宗公の側室とすることを、叔母であり振姫の老女紀伊に相談したところ、初子が名家の出身(父三沢権佐清長は美濃大垣城城主氏家志摩守広定の養子となり、関ヶ原の役後、流浪した)を理由に、正室としてならば婚姻を謹んでお受けすると答えた。忠宗公はこれを承知し、明暦元年(1655)正月、二人を結婚させた。しかし、公は幕府へは正規の結婚としては届けなかった。これは、将来の仙台伊達藩主正室としては初子の素性がふさわしくなかった事と、綱宗公が当時まだ未成年であったことが理由だとされている。だが、綱宗公は正室を娶ることなく、隠居してしまったので、初子は事実上の正室と認識されている。

(3)東京都目黒区正覚寺にも三沢初子の墓があります。この境内に、政岡を演じた尾上梅朝をモデルにした三沢初子の銅像があります。少々ややこしい感じもしますが、やはり政岡と三沢初子は、切っても切れない縁のようです。

(4)以前にも書きましたが、孝勝寺の山門は仙台城より拝領されたという言い伝えがあります。実に見事な山門で一見の価値はあります。なお、この寺域には参拝以外の出入りを禁ずる案内が出ています。写真撮影など、見学を希望する際は一言声を掛けてからが望ましいと思います。

綱宗公生母貝姫

『貝姫の戒名得生院の文字が読み取れる墓石。すぐ右隣には伊達藩のお抱え刀鍛冶本郷国包の初代から13代までの墓もある』

孝勝寺から南に道路一つこえると、東西に整備された新寺小路緑道という遊歩道があり、生い茂る木々が夏の強い日差しを遮ってくれています。その遊歩道に隣接するのが本日のゴールである善導寺であります。この寺には忠宗公の側室であった貝姫の墓があります。今回の記事のタイトル「女たちの伊達騒動」として最も訪れたかったのが、この三代藩主綱宗公の生母でもある貝姫のお墓でした。そもそも、伊達騒動の発端とされるのは、一般的に万治三年(1660)に綱宗公が幕府より逼塞を命じられた、いわゆる万治事件からです。ですが、それを更に遡り、貝姫が忠宗公の側室として嫁いだ件、すなわち綱宗公の出生の事実も捉えることで、それが、逼塞を命じられた理由を解明する手掛かりと考えられるようになったのです。

貝姫は巳之助(綱宗)を産んだ2年後の寛永十七年(1640)に亡くなり、この善導寺に葬られました。ところが、その死後に京の町人の娘ということで側室になったはずの貝姫が、公家櫛笥隆致(くしげたかむね)の次女であったことが判明したというのです。伊達家京都留守居佐藤市兵衛は京商人象牙屋茂兵衛に、その斡旋を依頼したところ、茂兵衛は貝姫の種姓を秘して紹介したとされています。が、問題はそこで留まらず、貝姫の姉が実は後西天皇(承応三年~寛文二年在位 1655-1663)の生母逢春門院隆子であったことです。つまり、綱宗公は天皇の従兄弟という血筋でもあったわけです。

おそらく、伊達家では貝姫の素性を最初、あるいは生前には知っていたのではないでしょうか。京の公家の娘がはるばる奥州へ側室として出向いた理由としては、父櫛笥隆致がすでに亡くなっていたことによる経済的な理由であったとする説がある一方、「東奥辺鄙ノ武士ノ女ノ、奥方ニ仕フルニ、手蹟、香、茶、饗礼等ヲ習ハシメムガ為ナリシナルベシ」(伊達騒動実録)という説もあります。その素性を死後ではなく生前に知っていたとする根拠となるのが、忠宗公が巳之助の出生届けを、3年近くも遅らせてから幕府に提出したことです。貝姫の死後、正室振姫との間の男子は次男光宗唯一人でした。忠宗公は巳之助に後々光宗を補佐させるため、振姫の養子として幕府へ出生を届け出たのです。江戸の振姫の下に巳之助を送り届ける際、忠宗公は光宗に手紙で「イカニモカルガルト、誰ノ子トモ知レザルヨウニ申スベク候。」と、幕府に対して公家の娘の子であることを知られたくない気持ちを書き綴っているのが、何よりの証拠です。しかし、そうした親心にもかかわらず、幕府は巳之助の出生に関して、当然ながらこれを知っていたでありましょう。

綱宗公逼塞の真相

実は、綱宗公が幕府から逼塞を命じられた本当の理由は明らかになっていません。歴史家の間でも、真の理由となると様々な意見があるようです。当時、仙台伊達家では、幕府より小石川の堀普請を命じられていました。綱宗公はその視察の帰りに遊郭へ足繁く通っていたこと、更には酒癖が悪く、藩主に就任以降これがひどくなり重臣達の諫言にも耳を貸さなくなった等が逼塞の理由として挙げられます。遊郭通いは当時の大名には珍しいことではなかったとする説もありますが、幕命による堀普請の視察ついでに遊郭へ通うというのは、イメージとしては決して良いものではなかったでありましょう。ですが、遊郭通いだけで藩主の座から下ろされるというのは、理由としては少々弱い気がします。

では、酒癖が悪かった件についてはどうだっのでしょう。父である忠宗公に殉死した重臣古内主膳重広は、死の間際、綱宗公の酒好きが将来心配であると語ったとされています。更に、逼塞を命じられた直後の奥山大学常辰の書状に、公が屋敷を堅く閉じ、酒を留めたことが記載されています。この酒癖に関しては、多くの学者が逼塞の最大の理由であることを認めています。しかし、滝沢武雄氏の「伊達騒動新考」(昭和42年)は、それに加えて上記した後西天皇と綱宗公との関係が、逼塞理由の根底にあったとする説を発表しています。

現在、仙台市博物館には後西天皇、逢春門院から綱宗公への書簡が40通ほど残されています。それらの内容から、天皇が即位した際には公からの贈献と、藩主就任時には天皇からの下賜物があったことが想像されます。幕府では、後西天皇が過去に大名達と接見した事を問題視しており、即位に際しても、「何ドキニヨラズ一歳宮ヘ御譲リアルベシ」という条件を付けた程でした。結局、在位八年でわずか10歳の霊元天皇への譲位も、幕府からの圧力が掛かったのが理由でありました。幕府が要注意とする後西天皇の従兄弟であり、親密な書簡の往復もある綱宗公を、幕府が以前から決して良く思っていたわけはありません。

伊達家臣連署状

万治三年(1660)七月九日付けで、幕府に綱宗公隠居を願い出る、仙台藩重臣14名による伊達家臣連署状が出され、11日後の十八日に幕府から逼塞の上意が伝えられています。連署状では病気を理由としてましたが、幕命では酒癖を一番の理由としています。つまり、理由はどうあれ、綱宗公を藩政から除く機会を、幕府は待っていたのではないかと想像できるわけです。それは、公が貝姫の子として生まれたという事実が、その根底にあったように思われるからです。そして、21歳という英気盛んな若者である綱宗公は、正徳元年(1711)六月七日、71歳で亡くなるまでの50年間を品川大井の伊達家下屋敷の中だけで隠居することになったのです。(5)

前回の記事で書いた仙台市博物館の企画展には、綱宗公が描いた屏風画や書画も展示されていました。それらは、公が隠居した身の暇つぶしに書いた画などとは到底いえない、息を呑むほどの素晴らしい作品でした。その才能は京の風雅を身につけていた母貝姫の血を、濃く受け継いだものであることは間違いありません。

私は善導寺を後にしながら、地下の貝姫が、綱宗公に降りかかった運命を憂いながらも、母としては子供が自分に似た才能を持っていてくれたことを嬉しく思っているのではないかと考えた次第です。(6)

3箇所の史跡を巡る散策はゆっくり廻れば、おおよそ1時間半くらいの行程です。市内中心部に近いゆえ逆に中々足を運ぶ機会がない新寺小路界隈ですが、榴ヶ岡公園や楽天のクリネックススタジアム宮城も歩いてすぐですので、お花見や野球観戦のついでにというのも良いかもしれません。

注釈その二

(5)伊達家臣連署状に署名したのは、伊達宗敏、伊達宗倫、田村宗良、伊達宗重、伊達宗直、伊達宗実、石川宗広、奥山常辰、遠藤俊信、富塚重信、原田宗輔、茂庭定広、片倉景長、大条宗頼で、一門、奉行、宿老がほぼ名を連ねている。すなわち、綱宗公隠居は、伊達仙台藩家中全ての総意だったことが判ります。

(6)この日は立ち寄りませんでしたが、善導寺の宮沢根白石線向いにある林香院には、寛文事件で連座した原田甲斐宗輔の男子の供養塔があります。寛文十一年六月九日に処刑されたのは嫡男帯刀25歳、仲次郎23歳、喜平次22歳、五郎兵衛21歳、帯刀の子采女5歳、伊織1歳です。逆臣の一族ゆえ、どこの寺院も埋葬を拒否したそうですが、この林香院の住職は何も言わずに埋葬を許したと言い伝えられています。なお、「女たちの伊達騒動」としては、事件後絶食して死についた原田甲斐の母慶月院の墓が宮城県亘理郡亘理町に、甲斐の妻(津田頼康の娘)の墓が岩手県水沢市真城にありますが、この2箇所もいずれは訪問したいと考えています。

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