新選組平同士 松本喜次郎 「誠」の旗の下に集いし男達の誇りを胸に、死へ赴いた隊士に捧ぐ

郡山市の大日本武徳会新誠舘の塾生5人は11日、同市湖南町の正福寺で新撰組隊士松本喜次郎慰霊・居合抜刀道奉納演舞を行い、松本喜次郎の遺徳をしのんだ。(2011.10.14福島民友)

和泉国岸和田藩で弘化三年(1846年)生まれの松本喜次郎が新選組に入隊したのは、文久三年八月十八日の政変前後であったと云われる。元治元年(1864年)の行軍録には井上源三郎の三番隊に属したことが記され、同年の池田屋騒動に際しては、出動隊士として褒賞金十五両を賜ったことも記録に残っている。

鳥羽伏見の戦いを経た慶応四年(1868年)、甲州勝沼の戦いの後永倉新八らと共に近藤勇と袂を分かち、新選組とは別に戊辰戦争に参じた。しかし、同年八月十七日会津戦争による戦傷がもとで、猪苗代湖南三代の正福寺(現福島県郡山市湖南町三代)にて死亡し、同寺に葬られた。墓石には「喜見道清居士/新選組士松本喜次郎二十三歳/慶応四戊辰年八月十七日没」と刻まれている。

松本の死に関して不可解なことは、大抵の歴史家達が新選組に復隊していたとする点である。確かに、戊辰の役を生き抜いた隊士達が後世に残した記録の中で松本は、「会津三代ニ而戦死」(中島登覚書)、「会津ニテ死ス」(横倉甚五郎新選組隊士名簿)、慶応三年から島田魁が作成した名簿録の中では蝦夷へ渡航せず戦死と、いずれも新選組隊士としての戦死扱いとなっていることからも明らかである。だが、戦傷を負ったとされる慶応四年閏四月からの白河口の戦いにおいて、山口ニ郎が率いた新選組の会津藩に提出された編成表の中に松本の名前は見当たらない。

松本が新選組に複隊していたのであれば、日時はいつだったのでしょう?靖共隊として、共に戦った永倉新八の著書からは直接の手掛かりになるような記述は見当たりません。ですが、気になる文章はありました。(1)

終ニ芳賀宜道同志ノ人ボウヲツムキ遊軍隊頭退役跡永倉新八ニ被仰付今市ノ官軍ト数度大苦戦、永倉新八ハ若松城下江手負全快ノ者迎ニ参ル」(浪士文久報告記事)

宇都宮城攻略の後に隊長芳賀宜道が同志の人望を失い、新八が隊長に就任。今市で新政府軍と数度の苦戦を強いられ、傷が癒えた同志を若松城へ迎えに行ったという件です。永倉の「新撰組顛末記」には隊長芳賀の件はありませんが、総督大鳥圭介の人望が無かったことが書かれています。時が経つにつれ、新政府軍の戦力が増強しつつある中で、旧幕軍内部も一枚岩ではなかったことが伺われます。(2)

「浪士文久報告記事」からは正確な日時は判りませんが、大鳥軍が今市で五月六日に大敗を喫し、日光から撤退し会津に入ったのが五月十五日だったことから、上記の記述は新選組が白河口で戦っていた時期と重なるのは間違いないはずです。(3)

おそらく松本は、旧幕軍に合流した会津藩日光口総督結城佐馬助(山川浩)から、白河城を奪還するために苦戦を強いられている旧友達の消息も聞き及んでいたでしょう。と、同時に四月ニ十五日に板橋宿で斬首され、翌閏四月八日京三条河原に梟首された近藤勇の情報も入手出来た可能性はあります。松本は若輩ではあるものの、池田屋事件にも参加した古参の隊士です。一時の意見の相違から別行動を取ったとはいえ、京で命を預けた新選組の隊長が処刑されたという事実は、23歳の若者にどれだけ衝撃を与えたことかは云うに及ばずです。

あくまで私の想像ではありますが、戦況が好転する気配もなく、靖兵隊に自分の命を擲つ価値が果たしてあるのかという疑問が松本の中に生じていたとしたら、それなら自分が最も輝いた京都時代に、共に白刃の下で戦い抜いた新選組隊士として死にたい、と願った可能性はないでしょうか。白河口で戦っていた新選組には、隊は違えども古参で平隊士であった安富才輔や横倉甚五郎がいましたから、複隊すること自体は難しいことではなかったでありましょう。

同年七月朔日羽太村ヨリ繰出シ、柏野ニ大砲ヲ備エ雷神山ヨリ米村迄進撃、(中略)味方一旦勝利ノ所不斗モ敵兵金清寺山ニ廻リ出、腹背ヨリ烈布討掛ラレ遂ニクツレ立夕景羽村迄引揚ケ休陣ス」 「同八月朔日同所出立、仙台口ニ向ヒケレ既ニ三春ハ敵地ト相成、二本松モ又落城ス 依之土方秋月両公始メ伝習第一大隊、回天隊、当隊三代ニ引揚ケ(後略)」 (島田魁日記)(4)

白河城奪還の最終局面における島田魁の日記からは、一時的な勝利を得るものの戦局を変えるまでに至らず退却した様子が書かれています。また、八月に入り、仙台へ至る三春、二本松両藩が新政府軍に降伏し、隊士達の士気に影響があったであろうことがうかがい知れます。更に、地元白河の庄屋川瀬才一の「見聞略記」には、凄まじい戦場の様子が以下のように書き留められています。

六月二十五日より七月十五日卯の上刻まで砲戦の絶えることはなく、撃剣天に響き砲発地を震わし、死人は山野通路に横たわりて、脚の踏む地なきが如し 人々肝を冷し、魂をとばし、生きた心地なし

松本喜次郎の墓のある正福寺の言伝えによると、松本は寺の墓地に瀕死の重傷を負って倒れていたということです。結局、住職の介抱もむなしく八月十七日に息を引き取ってしまいました。激しい戦闘の最中、負傷した松本は三代の新選組陣所に戻る途中、正福寺で力尽きてしまったのでしょうか。寺で手当を受けていると知った隊士達も見舞いに来たかもしれません。それゆえ、記録に新選組隊士として、戦死したことが残されている理由も納得出来ます。墓石の新選組士という肩書は、最後を看取った戦友達が住職に素性を話したことから刻まれたとも考えられます。しかし、私は死の間際までに、松本自身が自分の墓に新選組隊士であった事を残してほしい、と遺言したのではないかと想像します。自らの死場所として複隊した新選組こそ、人生の中で最も輝いていられた場所だったことを改めて感じていたに違いないからです。それゆえ、願いがかなった彼の死が安らかであっただろうと、私は思わざるを得ません。

参考文献

歴史群像シリーズ 会津戦争

(1)永倉の著書を読んでいると、松本と永倉の間に何かしらの問題があったのではという疑問が浮かびます。「新撰組顛末記」「浪士文久報告記事」共に、新政府軍が母成峠を攻める直前の8月18日まで、日光口で永倉は靖兵隊の隊長の任についていました。しかし、その後隊を林信太郎と前野五郎に任せ、以降全くの別行動を取っています。すなわち、松本に関して、死亡したかどうかはともかくその去就程度は知っていたに違いないと思われるわけです。書かれた時期が異なる両方の著書に松本のその後に関する記述が一切ないのは、単なる記憶の問題だけだったのでしょうか。また、明治期に、永倉新八改め杉村義衛が滝野川(JR板橋駅前)に建立した近藤、土方の記念石碑には、石の右側に新選組戦死者の氏名を、左側には病死、切腹、隊規違反で処刑された隊士達の名前が彫られています。如何なる理由から松本喜二郎の名前が左側に彫られているのでしょうか。

(2)「然ル処兵隊大鳥某ニ服セス趣モ有之」(島田魁日記)

(3)「南柯紀行・北国戦争概略衝鉾隊之記」大鳥圭介 今井信郎

(4)この文章は「中島登覚書」にも全く同一の記述が見られる。島田が書き写したものであろうと考えられています。

コメント

  1. Yubarimelon より:

    このサイトにいつもご訪問していただいてる皆さん、ありがとうございます。

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